許したなら、もう話題にせず、距離も置かず、以前の信頼へ戻るべきだと思われがちだ。覚えているなら本当の許しではない、と。しかし許すことは、起きたことを消す決定ではない。傷は信頼や危険への見方を変え、これから一緒にいられる形まで変えることがある。
人は罰を求めるのをやめ、相手をいつまでも失敗の日に固定しないと決めても、何が起きたかを覚えていられる。記憶は復讐ではなく、慎重さも前進の拒否ではない。以前は安全だと思った約束に危険があったなら、境界を変えるのは、新しく知った事実に合わせることだ。
許しの証明として忘却を求めれば、傷ついた人は、相手を安心させるために自分の判断を手放すことになる。終わりの時期を、また相手に渡してしまう。ただし、記憶も別の支配になりうる。一つの傷をすべての争いに持ち込み、どんな新しい行動も古い行動の続きとみなせば、過去は未来の証拠を受け取らなくなる。
許しは、その二つの間に場所をつくる。「もう無限の償いは求めない。でも、このことは今後の信頼を変えた」「続けたいが、昔へ戻るのではなく、新しい条件が要る」。元の関係へ戻れないことはある。戻る代わりに、変わった場所から始められるかを考える。
許しは義務ではない。謝罪が真剣だからと、相手に寛大さや成熟の証明を求めることはできない。許さずに関係を終えたり、まだ答えを出さず距離を置いたりしてよい。同時に、傷ついたことから、相手の全未来を決める権利が生まれるわけでもない。傷は責任を生むが、所有を生まない。
過去を押し込めれば、不信として戻る。過去にすべてを任せれば、新しい可能性がなくなる。許すとは、過去の位置を組み直すことだ。事実であり、結果を持ち、必要なら語れる。しかし新しい一日を、自動的にすべて決めるものにはしない。
そのためには、行動の変化が要る。何も変えずに許しだけを求めるのは、傷ついた人に一人で乗り越えさせることだ。反対に、変化が続いても、再び近づく義務はない。ただ、新しい事実を最初から無意味と決めず、必要なら判断の材料にできる。
許しても、別れることはある。追及をやめても、共に暮らせないと知ることがある。それは許しの失敗ではない。許しが止めるのは記憶ではなく、「失ったものが完全に戻るまで、あなたは永遠にあの日にいなければならない」という終わりのない要求なのかもしれない。