少年と一緒に笑う前に、その手が何をしているかを見てみよう。
画面の中央では、ふっくらした片手が竜の口の一部をつかみ、曲げた指が一列に並ぶ。もう片方の手は竜の頭を押さえている。長い吻が斜め上へ伸び、開いた口は少年の胸と腹の前にある。さらに上を見ると、子どもは首をかしげ、口角をわずかに上げている。二つの口は近い。一方は気楽そうで、もう一方は大きくこじ開けられている。
まず丸い顔に惹かれ、それから両腕をたどって、笑顔が動作のすべてを伝えてはいないと気づく。

この彫刻は、まだ幼児らしく丸みのある身体に並外れた力を与えながら、その身体を緊張させない。子どもがどう腰を落ち着かせ、竜がどう手足と密集しているかも、この気楽さに加わる。こじ開けられた口は、このまとまった組み合わせを、噴水としての用途の可能性にも結びつける。ここにある遊びの感覚は、戦いが消えたことから生まれるのではない。力を使う者が、力んで見える必要がないのだ。
作品は17世紀初頭のローマで生まれた。現在ゲティはベルニーニ父子の合作とし、のちに教皇ウルバヌス8世となるマッフェオ・バルベリーニの邸宅のためにつくられたとしている。美術館は少年を、幼いヘラクレスが毒蛇を制する古代の伝統と結びつける。その伝統では、幼い身体と驚異的な能力はもともと両立できた。目の前の彫刻はさらに、その能力を、子どもが何気なくできることのように見せる。作品解説 この来歴を知ると、子どもが怪物に勝てる理由はわかる。だが、その力がなぜこれほど軽々と発揮されているように見えるのかは、座り方から見始める必要がある。
一 力は、座り方に隠れている
子どもは胸を張って立たず、片脚を後ろへ蹴り出して相手へ飛びかかろうともしていない。低く座っている。一方の脚は画面左へ大きく開き、膝が丸くふくらむ。もう一方のすねは前へ下り、足を台座の前縁へ運ぶ。両脚のあいだは空ではない。竜の曲がった身体が横たわり、子どもの腹、手、足を、密集した狭い範囲につないでいる。
まず子どもの外縁だけをたどろう。頭は片側へ傾き、肩の高さは違い、前に伸びる腕は曲がり、膝は横へ開く。端正に座る輪郭ではない。しかし、身体の釣り合いを最も崩しやすい伸び方はしていない。手は身体から遠くへ離れず、竜の口は腹の前に引き寄せられている。子どもは相手を追わず、自分の前にとどめておけばよい。そのため上半身の動作は短く、近い範囲で保たれる。
低い位置の量塊も、その近さを支える。開いた脚、横たわる竜の身体、前にあるすねはすべて台座の範囲に収まり、幅広く厚い底をつくる。上へ行くほど形は減り、最後に傾いた頭が残る。子どもの顔は活発に見えても、その下にはかなり密な接触の集まりがある。力を使っていないように見えるのは、一つには、宙に浮く両手だけの存在にはされていないからだ。
座り方と物語も、ここで結びつく。竜は制される相手であると同時に、子どもの尻の下にいる。物語では二つの身体は対立するが、造形では、別々に立つ二人のように簡単に分けられない。少年の身体は竜の量塊に沿って置かれ、竜は少年の脚のあいだへ入り込む。怪物は身体の外へ持ち上げられ、単独で展示できる戦利品にはなっていない。まだ子どもの近くにいて、座られ、つかまれ、押さえられている。
全体は高さ約56センチ、幅約52センチだ。高さと幅がほぼ等しい寸法は、この作品の勢いが高くそびえることに頼らないと教える。左右に開く脚と下の竜の身体は、頭頂の高さとほぼ同じだけ重要である。画面で顔だけを拡大すれば、この幅広い底と、「気楽さ」の頼る量塊を失う。
二 肉の丸み、爪の曲がり
座る姿全体を見たら、手首へ目を移そう。つかむ指は細長く明瞭な関節ではなく、小さな丸い形が節ごとに押し合っている。前腕は手首で細くなり、その先ですぐ掌へとふくらむ。脚も同じだ。膝、すね、足首はまっすぐな棒を並べたものではなく、連続してふくらみ、すぼまる。その変化から、幼児の身体の柔らかさを見分ける。
竜の身体は、別の読み方を与える。腹には横向きの起伏が連なり、長い吻の縁には尖った突起があり、頭の側面には反り返る形がある。子どもの肌は広い曲面に沿って目を滑らせるが、竜の表面は何度も視線を止め、短い凹凸や巻いた縁を見分けさせる。どちらも大理石なのに、目は同じ種類の身体としては読まない。
違いは「滑らか」と「粗い」だけではない。竜の長い吻も伸びた量塊だが、上へ行くほど細長く、縁は鋭くなる。子どもの前腕は、手首に近づいても丸い厚みを保つ。隣り合う二つの形の一方は硬い口を、他方はつまめばへこみそうな肉を思わせる。石が本当に柔らかくなったのではない。柔らかさの感覚は、隣接する部分のあいだで形がどう変わるかから生まれる。
ここで最下部を見直すと、子どもが怪物を完全には身体の外へ隔てていないことがわかる。竜の片方の爪足は前の足首の脇まで伸び、曲がった指先が丸いすねにぴったり接する。反対側では竜の胴が、脚の続く方向を一部隠す。上の手は口を制しているが、下の脚は爪や胴と絡み合っている。何気なく置かれたような手足には、実際には独占できる空間があまりない。
この小さな細部が、場面を「かわいい子どもと変わった玩具」にさせない。竜には自分の爪と口があり、目をとらえる尖端がある。その形はなお子どもへ近づく。それなのに写真には、その尖端に応じて痛みでこわばる少年の顔がない。接触は見えるが、それに見合う緊張は見えない。並外れた能力が、この不釣り合いに現れる。
二つの身体は近い大理石の色で現れ、接触部には明瞭な色の境界がない。目はくぼみや重なりをたどって、どこが脚でどこが竜かを見分けなければならない。見ることには、もつれをほどく作業が加わる。先に二つのものを認識してから組み合わされた姿を見るのではなく、密集するところで徐々に二つの身体を見分けていく。
三 二つの口の距離
子どもの笑いは大げさではない。唇のあいだには細い隙間だけが残り、一方の口角が上がり、ふくらんだ頬が短い顎へ続く。首をかしげることで両目と口は水平を外れ、顔全体が少し好奇心を帯びて傾くようだ。写真では顔は前を向き、視線も両腕に沿ってまっすぐ竜の口へ落ちてはいない。
竜の口は、別の広がりを占める。長い吻はほぼ子どもの胸の高さまで立ち上がり、開口がつくる斜線は上半身の前へ入り込む。子どもの細い唇の隙間のように、顔の一部だけで表情を示すのではない。頭全体が、開く動作に巻き込まれている。ごく狭い範囲で、微かな笑いから巨大な開口へと目を移せる。そして両手が、ちょうどその二つをつないでいる。
手があるため、開口は竜自身の表情だけではなくなる。画面右側の指は竜の頭に広がり、もう片方の手は中央で口の別の部分をしっかりつかむ。一方で押さえ、他方で引いて保持する。美術館はこの動作を、素手で竜の顎を折るものと解釈している。所蔵作品の解説 写真を、骨がまさに折れつつある厳密な瞬間と読まなくても、竜が自分で口の閉じ方を決められないことは見て取れる。
笑顔と動作は、そこで単なる「無邪気さ」と「力」の組み合わせではなくなる。子どもの顔は外へ向き、両手は竜の頭を占め続ける。顔が私たちを引きとめ、手が、そのあいだに何を見ているのかを知らせる。どちらも隠されてはいない。ただ、丸い顔のほうに先に注意が向きやすいのだ。
やんちゃな遊びのように感じるなら、その感覚には具体的な条件がある。頭は傾き、身体は張りつめず、口角の上がり方は軽い。しかも相手を集中して見張る必要がないように見える。その後で竜の境遇はあまり気楽ではないと感じるなら、そこにも具体的な根拠がある。口は両手で開かれ、身体はまだ子どもの下にある。神話の幼児の人格を裁くためではない。近接する身体の集まりに、対等でない動作を作品がどう組み込むかを見分けるのだ。
動作が座る姿から離れないからこそ、笑いは勝利が終わったあとの表情だけにはならない。少年はまだ手を離さず、竜の口はまだ閉じない。動作の最中に、気楽さが続く。その持続が、写真の静けさに少し奇妙なものを含ませる。場面全体がいつまでもこのまま続き、子どもは息をつく必要さえないようだ。
四 竜の口は、ほかに何ができるのか
こじ開けられた口は、見るためだけのものではなかった可能性が高い。
ゲティが1988年に発表した収蔵時の研究は、台座の底から竜の口へ通じる穴を記録し、それを根拠に、もともと室内噴水として計画された可能性を指摘する。ここには大切な区別がある。穴は美術館が報告した実物の構造であり、室内噴水はその構造が支える用途の判断だ。写真自体には穴の全経路は写らず、当初の水盤、設置の高さ、水流の形もわからない。ゲティの収蔵時研究、184頁
それでも「もし水を通したなら」という条件を保てば、先ほどの動作にはもう一層の意味が加わる。子どもが竜の口を開き、そこから水が流れ出る。無理に開かれた口は、実際の流れを彫刻へ取り込む出口にもなる。水の出口はどこかへ適当に隠されたのではない。すでに注目していた動作の中心、両手のあいだ、長い吻と子どもの上半身が隣り合うところにある。
そう想像するのに、大げさな水柱を補う必要はない。そこから水が出ると考えるだけで、見る時間は変わる。大理石の手はさらに引けず、竜もさらに身をよじれないが、水は変わらない位置を絶えず通るだろう。彫刻に刻みとめた動作を、実際に起こる別の運動が通り抜けられる。永続する開口は、一瞬が引き延ばされたことだけを意味せず、装置が働き続ける条件にもなりうる。
台座の凹凸のある表面と低い位置に集まる身体は、この用途の可能性をまったく外から付け足したものには見せない。ただし、それらの形だけから噴水全体を復元することはできない。現在の、水の流れない美術館写真に残るのは、独立した、緊密な石彫の組み合わせだ。噴水の知識は彫刻としての完結性を打ち消さず、一つの開口が物語と使用の両方に属しうると教える。
「遊び」にも、もう一層が加わる。子どもは像のなかで竜を扱い、現実の観客は、竜の口から出る水も見たかもしれない。子どもが本当に手の姿勢を変えなくても、作品は新たな見どころを生み続けられる。軽快さは笑顔だけから来るのではなく、石彫が水の流れの可能性にどう場所を用意したかからも来る。
最後に、握りしめた手を見直そう。竜の口を開いた位置にとどめ、私たちの注意もそこにとどめる。上には柔らかな小さな顔、下には密着する身体、そのあいだには表情、力、用途をつなぐ開口がある。この作品の不思議さは、強さと幼さを相殺することにはない。子どもが力も要らないように見えるには、これほど多くの形が一緒に働かなければならない。そのことを徐々に気づかせる点にある。
もう少し読みたい人へ SAEから見直す
写真のいちばん上の頭を一時的に隠し、肩より下だけを残してみよう。曲がった腕、竜の口をつかむ手、広く開いた脚は残る。誰が誰を制しているかはわかるが、出会いを「遊びのようだ」と判断する大切な根拠が一つ減る。
もう一度顔を見せる。変わったのは手の位置でも竜の口の開き具合でもなく、同じ動作が帯びる調子だ。笑いと傾いた頭が、力を使う身体に気楽さを添える。彫像をつくり変える必要はない。見るときに注意の一部を外し、戻すだけで、動作の認識と場面全体から受ける感覚が同じではないとわかる。
顔を戻すことは、判断に無関係な装飾を加えるのではない。その顔は、いま力を使っている身体の一部だ。顔の気楽さによって、下の手は苦労して仕事をするものではなく、注意をほかへ向けられるほど手慣れた動作に見える。部分の姿勢は変わらないが、身体全体のなかで帯びる意味は変わる。顔を「かわいい」、手を「力強い」と呼んで二つの評価を足すだけでは、その変化を十分に説明できない。
ここは、SAE美学への入口になりうる。見える一部分が、全体についての判断をどう組み替えるのか。まず顔を隠し、戻したときに実際に変わるものを見分け、次に、気楽な顔と力を加える手がなぜこれほど鮮明な関係をつくれるのかを問う。理論が与えるのは問い続ける方向であって、あの両手を見る仕事を省くことはできない。SAE美学総論
画像と資料について
本稿は、ゲティが提供する正面のやや上からの写真1点に基づく。原画像は3561 × 4500ピクセルで、美術館は保存処置後の写真と記している。公式ダウンロードのファイルをそのまま使用した。別角度の画像で見えない部分を補わず、現場で見たり触れたりした記録とも見なしていない。底から竜の口への穴は美術館の研究によるもので、この写真から独自に確認したものではない。
作者と年代は、現行の所蔵記録に従い、ピエトロおよびジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、1617年頃とする。初期の出版物にある単独作者への帰属や異なる年代を、本稿の作者表記の根拠にはしていない。また特定の手や顔を、父子どちらかの彫りに割り当ててもいない。画像の出典と利用条件は画像一覧、参考資料は資料目録を参照。形の分析と噴水の効果についての条件付きの想像は、本稿の読みである。