Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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SAE · War Theory · 日本語編集・再構成版
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戦争を語ることへのためらい

Han Qin (秦汉)

沈黙にも代価がある

人を目的として扱う理論にとって、戦争は最も扱いたくない対象である。だが沈黙すれば、現場は勝利、国益、報復だけを語る言葉に委ねられる。ここで必要なのは戦争を始める人の理論でも、安全な場所から歴史を裁く理論でもない。避けられない衝突に入りながら、出てきたときにも自分を見失いたくない人のための方向である。

このシリーズの主役は戦争ではなく、育成(cultivation)である。育成とは、主体が時間のなかで判断力と固有の方向を深め、他の主体との関係を通じて成長する過程を指す。戦争はその過程が破壊されたときにだけ呼び出される最後の手段であり、育成そのものではない。

正義ではなく構造から始める

戦争と法は同じ層にある。法は日常の衝突が育成を壊さないよう処理し、戦争は極端な衝突のあとに育成が戻る道を確保する。どちらも手段であり、目的の席に座ってはならない。

ここでの基礎は「われわれの正義」ではない。主体性は完全には消去できず、抑圧された主体性は抵抗、記憶、再構成として戻る、という構造認識である。したがって基準が問うのは善悪の判決ではなく、ある行為が育成の回復に向いているか、それとも新たに育成を遮断しているかである。

その基準はまず内側へ向ける。自分の行為を点検するなら反省になるが、他者や過去を裁く免許にすれば、基準自身が支配の道具へ変わる。

哲学が渡せるのは方向だけ

非軍事的な道が本当に尽きたか、どの拡大が必要か、いつ止めるべきかは、現場の情報と責任を負う人が判断する。静かな部屋の哲学者は、兵士や政治家に代わって決定できない。

哲学ができるのは、戦争という手段がいつ育成を守り、いつ目的化して育成をのみ込み始めるか、その方向を明確にすることだけである。歴史例も判決のためではなく、抽象的な構造を見えるようにするために用いる。