公理は一つだけ
ものではなく、避けられない働き
SAEの零点「非は否定できない」を、否定にも耐える特殊な存在者についての命題と読むと、ただちに別の証拠が必要になる。第一批判が示すのは存在物ではなく遂行である。対象や結論、さらには「非」という概念を否定しても、その行為は否定するものとそうでないものを区別している。
否定は、否定しながら否定の働きを消せない。ここで得られるのは宇宙の中身ではなく、発話が実行中には回避できない操作だけだ。したがってこの公理から1DD–16DDの内容や必然性は出てこない。薄い零点を豊かな存在論へ膨らませれば、それ自体が資格の僭称になる。
零点も余項もモーターではない
「認識する必要はない」と否定することがすでに認識であるとしても、すべての主体がいつでも認識を開始し続けねばならないとは言えない。沈黙、停止、参加拒否は可能だ。公理は、行為が起きたときにそこに区切りがあると示すだけで、まだ動いていない主体を道路へ押し出さない。
同じく、どの区切りにも取り込めない余項が残るとしても、余項が次の作業を命令するわけではない。続けるなら方向の手掛かりになるが、行為者を供給したり代わりに切ったりはしない。未払いの項目は帳簿に残る。それが自分で窓口へ歩くわけではない。
終点がなくても、獲得はある
一つの獲得が新しい境界を生むなら、全体を終える固定点はない。だが終点がないことは、途中の成果がないことを意味しない。概念を一つ学び、誤った住所を直し、依存関係を一つ見抜くことは、それぞれ実際の獲得である。SAEの言う「接近ではなく獲得」は、究極の距離計を捨てるのであって作業を無価値にしない。
整理後に残るのは、現在の候補の中で遂行検査を通った公理が一つ、そして認識・余項・構・離散性・反省性を引き受ける六公準である。「一つだけ」も永遠の閉鎖ではない。新しい公理候補は登録できるが、名前だけで昇格せず、同じ公開検査を受けなければならない。