ローマの崩壊と三つの方向
476年は終わりではなかった——ローマの遺産は三方向に分岐した
一 長い崩壊の真の形態
476年のロムルス・アウグストゥルスの廃位は「ローマ帝国の滅亡」ではなかった。それは三世紀以来蓄積してきた長い過程のある一瞬に過ぎなかった。軍の維持に必要な税収が戦争によって侵食され、その侵食がさらなる軍の弱体化を招く悪循環。ゲルマン系の傭兵が軍の基幹を担い、ゲルマン系の司令官が帝国の実権を握るようになった時点で、「ローマ軍」と「蛮族軍」の区別は事実上消えていた。
476年以降もイタリアの生活は継続した。都市は存続し、ローマ法は生き続け、ラテン語は書かれ続けた。教会の組織網は機能し、土地の貴族は地方の秩序を維持した。変わったのは「皇帝という形式」だった。この「形式の消滅」と「生活の継続」の乖離こそが、ローマ崩壊の理解を難しくしている。崩壊はある日突然起きたのではなく、長い期間にわたって徐々に進行し、476年という日付はその過程の途中の一点に過ぎない。
二 継承王国の不均質な連続
西ローマ領土に成立した継承王国は「ローマを破壊した」のではなく、「ローマの形式を部分的に引き継いだ」。西ゴート王国はローマ法の成文化(『西ゴート法典』)を行い、フランク王国はローマの教会組織を利用してガリアの行政を維持した。テオドリクスのオストロゴート王国ではローマ人カッシオドルスが首席秘書官を務め、イタリアの文官体制を事実上継続させた。
継承の度合いは不均質だった。地域によって、王国によって、まったく異なるローマ継承が実現した。ブリタニア(イギリス)ではローマの都市インフラがほぼ完全に消滅したが、イタリアとガリアの南部では都市生活が相当程度持続した。この不均質性が後の西欧の多様性の原点だ。「中世」を一枚岩として語ることが困難な理由のひとつは、崩壊の度合いがこれほど地域によって異なったからだ。
三 宗教次元——アリウス派とニカイア派の分裂
多くのゲルマン系王国の王族はアリウス派キリスト教徒だった。西ゴート王国、ヴァンダル王国、ランゴバルド王国がその例だ。ニカイア派(後のカトリック)のローマ系住民と、アリウス派の征服者がひとつの王国に共存した。この宗教的分裂は統治の困難を生んだ——ニカイア派の司教は帝国教会の権威を主張し、アリウス派の王権はその主張を認めなかった。
転換点は496年のクローヴィスのニカイア派への改宗だった。フランク王権がローマ教会の支持を獲得し、ガリアのローマ系精英との融合を実現した。ローマ教会の道徳的権威と征服者の軍事力の結合が、後のフランク支配の安定した基盤を作った。逆にアリウス派の王国——ヴァンダル王国がカトリック信徒を迫害した例など——は内部の宗教的摩擦を軽減できず、長期的な統治の困難を抱えた。
四 新しい公共管理者としての教会
西ローマ帝国の行政機構が崩壊すると、教会がその一部を引き受けた。司教は都市の行政機能(食料配給、争議仲裁、交渉窓口)を担い、修道院は農業生産の組織と書字・写本の保存を担った。ローマ教皇グレゴリウス一世(590-604年)はイタリアで事実上の政治的役割を果たし、ランゴバルドとの交渉を行い、病院・救護所・食料配給所を組織した。
教会は帝国の残骸の中で、唯一の跨地域的組織として生き残った。ラテン語という共通の書記言語、ローマ式の文書行政の慣行、カノン法の発展——これらが教会を、分裂した政治的世界に唯一の制度的連続性を与える機構にした。この位置が中世教会の権力の基礎であり、後の教権と王権の長い対立の起源でもある。帝国なき時代に教会が「帝国的機能」を担ったことが、後に王権が再建された時の摩擦の種になった。
五 コンスタンティノープル——東部の継続
東ローマ帝国は「ビザンツ帝国」として知られるが、内部では一貫して自らを「ローマ帝国(バシレイア・ロマイオン)」と呼んだ。コンスタンティノープルは330年以来帝国の首都として機能し、六世紀においてもその地位を保った。東方では西方で起きたような政治的崩壊は生じなかった。官僚機構は継続し、税収は維持され、軍は機能した。
しかし東部の継続も容易ではなかった。五世紀から六世紀にかけて、カルケドン公会議(451年)をめぐる単性論争がエジプト・シリア・アルメニアを帝国から宗教的に疎外した。この神学的亀裂は後に七世紀のアラブ征服を容易にする社会的基盤になった——カルケドン派の帝国支配に不満を持つ地域の住民の一部がアラブ征服者をより容易に受け入れた。構の内部の神学的余項が、外部からの政治的変化を可能にした。
六 ユスティニアヌス——再征服の頂点と疫病
ユスティニアヌス(527-565年)は「ローマ帝国の回復」を試みた最後の皇帝だ。アフリカのヴァンダル王国(533年)、イタリアのオストロゴート王国(535-554年)、イベリア半島南端を征服した。同時代人にとって、これはローマの復活のように見えた。しかし再征服の代価は甚大だった。二十年近くの戦争がイタリアを荒廃させ、東方の防衛力を削ぎ、財政を枯渇させた。
541年、「ユスティニアヌスのペスト」がコンスタンティノープルを直撃した。近年の推計では帝国人口の25-50%が死亡したとされる。このペストは断続的に150年以上再発し、帝国の人的・物的基盤を侵食し続けた。ユスティニアヌスの再征服は彼の死後数十年で瓦解した。過大な拡張の代価と疫病の打撃の組み合わせが、次の世紀の帝国の脆弱性を決定した。
七 サーサーン朝ペルシア——ローマ最後の強敵
サーサーン朝(224-651年)はパルティアを倒して建国された、ゾロアスター教を国教とするイランの帝国だ。ローマとサーサーンは三世紀から七世紀まで、ほぼ途切れることなく競合した。争点は常にメソポタミアとアルメニアだった。602-628年の最後の大戦争でサーサーンはシリア、エジプト、アナトリアを一時占領し、614年にはエルサレムから「真の十字架」を奪取した。皇帝ヘラクレイオスは反撃に成功し628年に勝利したが、両国は消耗し切っていた。
この相互壊滅が、アラビア半島からの新しい力の出現を可能にした。七世紀前半、ビザンツとサーサーンは両方とも百年以上の消耗戦の後遺症を抱えていた。財政は枯渇し、軍隊は疲弊し、民衆の帝国への信頼は低下していた。アラブの征服軍が到達した時、多くの地域の住民は従来の支配者への積極的な忠誠を持っていなかった。構の消耗が、新しい構の参入障壁を下げた。
八 アラビア半島——新しい構の胎動
六世紀末のアラビア半島は周縁だった。ビザンツともサーサーンとも直接の支配下になく、各部族が独自の均衡の中で存在した。メッカはカーバ神殿を中心とする多神教的巡礼都市であり、部族間交易の結節点でもあった。しかし周縁の地であったからこそ、そこは既存の帝国構の重力から最も自由な場所でもあった。
この周縁の地で生まれた新しい宗教運動——イスラームという構——が、七世紀に両大国の廃墟の上を席巻することになる。その運動は信仰だけでなく、組織だった。部族的帰属を超えた新しい共同体の原理、書き記された神の言葉、明確な法的・倫理的枠組みが、それをただの宗教改革ではなく、新しい政治的形態の原型にした。次の篇でその誕生を詳しく見ていく。
九 ローマは複数の仕方で終わった
「ローマの終焉」は単一の出来事ではなく、複数の過程の束だ。政治的なローマは476年に西方で終わり、1453年に東方で終わった。法的なローマはユスティニアヌス法典として中世を生き続け、近代の法律体系の基礎になった。言語的なローマはラテン語としてカトリック教会の中で、そしてロマンス語諸語として一般の人々の生活の中で生き続けた。
鑿構周期律の観点から言えば、ローマという構は三つの方向に分岐した。西欧封建社会——ローマの行政インフラなき世界で地方的秩序を形成した。ビザンツ帝国——ローマの継続を主張しながらギリシア化・キリスト教化した。イスラームのウンマ——ローマとサーサーンの消耗が作った真空を埋めた新しい構。これらの三方向の分岐が後の中世世界の基本構造を形成した。余項は消えなかった——形を変えて後の歴史の動力になった。