Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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082 / 108 · 私たちはどう知るのか

屈原――美は認識である

香草、旅、漁父の歌。詩は一人を知る道を開きながら、別の声にどんな場所を残すのか。

一 天に問う

「天問」は、まず宇宙の成り立ちを説明してみせる作品ではない。それより先に、始まりについての話を誰が伝えたのかと問う。天も地もまだ形を持たなかったときのことを、何によって確かめられるのか。

はるかな始まりを、誰が語り伝えたのか。

まだ上下の形もなかったものを、どうやって調べるのか。

問いは太陽と月から、洪水、山や川、古い王たち、伝説に登場する身体へと移っていく。問いのあとに問いが続き、最後に設問ごとの解答集が置かれることはない。しかし、答えを添えていないことと、答えを求めていないことは違う。「知っている」と言う根拠まで、ここでは問いの中に入っている。

何百年も後、注釈者の王逸は、その成立をめぐる印象的な話を記した。追放された屈原が、楚の祠廟に描かれた天地や古人の絵を見て、壁に問いを書きつけたという。これは後代の説明であり、その日の目撃記録ではない。私たちは問句を読める。だからといって、荒野で一人、空へ語りかける場面まで確定した史実にすることはできない。

司馬遷の『史記』は、屈原を楚の王族と同じ一族に属する官人として描く。懐王の左徒を務め、国政の協議や外交にかかわった人物が、遠ざけられ、非難され、さらに追放される。そこには伝記の構成と評価がある。流謫の日々を一日ずつ記した日誌があるわけではない。

したがって、「汨羅江のほとりで九年」という一つの期間に、「離騒」「天問」「九歌」をすべて詰め込むことはできない。「九歌」にある祭祀と歌舞、異なる声まで、見捨てられた一人の独白にまとめる必要もない。王逸自身、その序で楚の祭神の習俗と結びつけている。

そこまできつく閉じなくてよい。

すでにある場所から排除された人が、それでも問いを発する。そのことは、苦しみを詩の必須条件にしなくても重要である。朝廷に席がなくなったからといって、世界の意味まで誰かが代わりに決め終えたことにはならない。

「天問」は、説明をもう一度、疑問の先へ置き直す。

二 「離騒」の中で語る人

司馬遷は「離騒」を憂いに結びつけ、王逸は「離」を別れ、「騒」を愁いとして説明する。それぞれ違う入り口がある。ただし、題名の説明だけで、詩が行うことのすべてを先取りできるわけではない。

まず冒頭を聞く。

語り手は高陽の末裔であると名乗り、亡父を伯庸と呼ぶ。系譜、誕生、名づけが、旅の始まりに置かれている。この「私」は無から生まれたのではない。関係と言葉はすでにあった。受け取ってきたものを使いながら、いま自分が引き受ける言葉を口にする。

中国文学で初めて「私」が現れた瞬間、と呼ぶのは正確でない。『詩経』も、すべて作者の手がかりを欠く集合的な声ではない。「節南山」は家父が詩を作ったと述べ、「巷伯」は寺人孟子がこの詩を作ったと記す。これだけで成立史の問題が解けるわけではないが、屈原以前には誰も名乗らなかった、という主張は成り立たない。

名前がわからないことは、人がいなかったことではない。

「離騒」の特別さは、前にいた人々を消さなくても見える。一つの発言する位置が、長い変化の中で保たれる。身を飾る。待つ。傷つく。言い返す。出発し、振り返る。離れたいと思っても、大切にしているものを簡単には置いていけない。

読者が受け取るのは、ある人にある出来事が起きたという情報だけではない。その人がどう受け止め、何を区別し、どう選び直すかという動きである。詩の「私」はあくまで文学の声であって、一行ずつ外部史料と突き合わせられる私的日記ではない。それでも、無人の事項一覧に置き換えれば失われるものがある。

認識する人には、ここに場所がある。

あらゆる経験より前にではない。自分の言葉に責任を持つ、その位置に。

伝統的に「九章」に収められてきた「涉江」では、その「私」は身体を伴って移動し続ける。水路を進み、名のある土地に着き、溆浦でためらう。山は日を遮り、天候は一日の条件を変える。 地名や船旅や遅滞は、抽象的な「忠節」に土地の色を塗っただけではない。道が実際に曲がり、船が遅れ、雨によって可能な行動が変わるからこそ、「志を変えない」は宙に浮いた標語ではなくなる。

ここで「知る者の位置」も具体的になる。理論上の座標だけでなく、どの川、どの山、どの季節、どれほどの政治的距離から語っているのかを問わなければならない。位置は視野を制限する一方、別の場所からは見えない細部を与える。位置を認めることは、すべての判断を相対化することではない。判断に、自分がどこから来たかも差し出させることだ。

三 美を通して知る

「離騒」には香りのある植物が多い。江離、芷、蕙、蘭。そして木蘭の露と秋菊の花。植えられ、摘まれ、編まれ、身につけられる。それらはまた、萎れ、性質を変える。ここでいう蘭は、まず古代の芳香植物として読んでおこう。現代の花屋で売るラン科植物の名札を、ただちに付ける必要はない。

朝には木蘭から落ちる露を飲み、夕べには秋菊の落花を食べる。

この二句を、清らかな生への要求として読むことはできる。王逸も香草を品行に結びつけ、一部の求愛の場面を君臣関係として解釈した。しかし、対応する意味が見つかれば詩がすべて済むわけではない。どの草も、どの美しい人物も、つねに同じ概念と交換されるとは限らない。

朝と夕べを消し、露と花を「美徳」に替えてみる。命題の要約は残るかもしれない。けれども一日が消える。口に入るもののかすかな軽さが消える。ある暮らし方を、毎日あらためて保とうとする動作も消える。

なくなるのは包装紙ではない。

私たちがこの人を知るための一部である。何を身近に置き、何のために待ち、季節が過ぎることをなぜ恐れるのか。ここで美が認識にかかわるのは、鼻が人の正しさを検査できるからではない。詩の組み立てが、抽象的な決意に、他の人も入り込める手ざわりを与えるからである。

しかも、その組み立ては肯定だけをするのではない。

後には、蘭や芷が香らなくなり、香草だったものが茅に変わる。

かつて頼れた名も、そのまま保証書にはならない。失望によって、同じ像の置かれる場所が変わる。読者はその変化に付き合いながら、自分の以前の信頼について気づくかもしれない。なじみの名前が、対象を保証していたわけではなかった、と。

そのために、コントやポパーを詩の拒絶者に仕立てる必要はない。コントは詩と芸術を詳しく論じている。問うべきは、彼が定めた役割で、詩が開く問いを尽くせるかどうかである。 ポパーの科学の境界は意味全体の境界ではなく、人間の創造物には物語、歌、芸術も含まれている。

だから、「実験では証明できない、ゆえに何も知らない」でも、「実験の管轄外だから、何を言ってもよい」でもない。作品の書かれ方、解釈が都合の悪い箇所を除いていないか、詩を通じて述べる歴史的主張は確かか。そうした問いは残る。

ポランニーが述べた、私たちは語れる以上のことを知りうるという考えは、明示的な説明で尽くされないものに場所を残す。説明できない感覚を、すべて真理にするわけではない。

伝統的に「九章」に収められてきた「橘頌」は、この関係をさらに近くで示す。橘は抽象的な「節操」の記号ではない。詩と注では、南に育ち、移植しにくく、青い葉、白い花、棘のある枝、丸い実をもつ。王逸はそうした性質を一つずつ人格の解釈へ導くが、その読みが働くのは、対象の側にまず固有の形、色、生育条件があるからだ。

詩を「堅固」の二字に縮めれば、格言は残る。しかし、なぜ橘なのかは消える。詩と注では、南の土地を離れがたい橘の姿が、人間の自己を照らす。ここで美は概念の縁を飾るものではない。具体的なものの抵抗に判断を出会わせる。

これは「香草美人」を自動的に解読することにも限界を置く。王逸の比興の読みをたどることはできる。だが香草が最初から常に徳を意味するなら、読者に残るのは暗号表だけだ。詩が認知的に面白くなるのは、対象の側が、すでに知っていると思った答えをまだ修正できるときである。

美は何かを見せることも、見誤らせることもある。ここでいう認知は営みであって、個々の判断が必ず正しいという保証ではない。美をその一つに数えるのは、質問を免除するためでなく、質問する前に追い出さないためである。

四 彼は岸辺にいる

後の死によって、一生をあらかじめ水の中へ沈めないでおこう。

彼は岸辺にいる。長い道を書いた人として。

道は遠く長い。上下に求め、探していこう。

これは到着の保証がついた地図ではない。詩には探索も、遅れも、去ろうとする動きも、振り返りもある。歩き出した時点で、旅全体の保証を持っていた人ではない。詩を命題の束に還元すれば余るものがある。反対に、話し合える主張が何もないと決めても、失うものがある。

旅で難しいのは、ときに道を選ぶことより、何を振り返り、何を簡単には捨てず、何を手放せるかを見分けることだ。詩はそのためらいと選択を言葉に残す。

知ることは答えだけにかかわるのではない。なぜこの問いには、何気なくページをめくれなくする重さがあるのか。その重さにもかかわる。詩は、それを他者が近づけるものにすることがある。

ただし、方向は命令ではない。続けてもよいし、考えを変えてもよい。休み、誰かと一緒に考える場を探してもよい。「求索」の一句から、生涯休んではならない課題をこちらが発行してはいけない。

目の前の仕組みは、この人を語り尽くしていない。だが、その外に残った道も本人の代わりには選ばない。歩くか、どこへ行くかは、なお彼の問いである。

美は時に、その違いを感じられるものにする。

代わりに歩くのではない。歩く速度が上がりすぎたとき、もう一度足元を見せる。

五 川の水は詩の証明にならない

『史記』は川辺の対話のあとに「懐沙」を置き、その後に屈原が汨羅で死んだことを記す。影響の大きい叙述の順序である。しかし、ここには死の正確な年月日は記されていない。都の陥落、知らせを聞く詩人、祭日の一日を、そのまま目撃証言のある午後へと組み合わせることはできない。

「懐沙」を終わりの重さとともに読むことはできる。だからといって、その配置が、居合わせた人に確認された日付入りの最後の手紙を意味するわけではない。楚の衰退、都の陥落、国の最終的な滅亡も同じ出来事ではない。『史記』自身、屈原の死から数十年後に楚が秦に滅ぼされたと述べている。

二千年の距離を越えて、彼の困難に簡単な処方を出すことはできない。同じように、彼の死をこの文章の最も美しい一手として配置すべきでもない。

死を最後の完成とすれば、他の道はすべてなく、後世に残る詩が続けられなくなった人を埋め合わせる、と本人に代わって宣言することになる。

詩は、そのどちらも証明していない。

古代の追悼も一枚岩ではなかった。『史記』所収の賈誼の弔文は、悲しむと同時に、なぜこの都にとどまらなければならなかったのかと問う。司馬遷も末尾で、悲痛と、弔文を読んだ際の疑問を記している。悲しみと問いは、もともと同じ文章の中にある。二千年の全員一致にまとめる必要はない。

端午の行事も、各地の記憶や季節の暮らしを含む。屈原の追悼は大切な流れだが、伍子胥を記念する伝統もある。食、舟、季節の習慣、生への願いが、地域によって異なる姿をとる。一つの文明全体が、同じ日に一つの命題を繰り返しているわけではない。

詩が残るには、覚え、写し、編み、教え、訳し、また開く人がいる。伝わり続けることは、後から来た人々が続けている仕事である。それによって、詩人は当時死ななければならなかったという証明書を遡って発行することはできない。

「離騒」は、最後の資格を川の水から受け取る必要がない。

人もまた、語り尽くされていないことを示すために、消えなければならないのではない。

六 この連作のほかの人々と

杜甫も花を書き、鳥を書いた。

「春望」では、時を思う涙と花、別れを恨む心と鳥が結びついている。

その関係には異なる読み方がある。どの読みをとるにせよ、風景がそのまま報告書へ写された、とだけ言うのは早すぎる。感覚、記憶、言葉、目の前の世界は、詩句の中ですでに互いを変えている。「見てから記録する」だけのカメラではない。

反対に、記録されていない屈原の一瞬に入り込み、彼は先に完備した美徳の概念を持ち、その後に蘭を見つけたのだと決めることもできない。二人を「経験」と「ア・プリオリ」の別々の関所に立たせなくても、違いは見える。

チューリングとは、また別の出会いになる。計算可能数についての論文は1930年代に公刊されている。1952年の訴追と、ホルモン投与を条件とした保護観察処分よりも、ずっと早い。計算の思想を、この処分を受けた後にようやく生まれた贈り物としては書けない。

官職を失った詩人と数学者の境遇を、一枚の受難者の肖像に畳んでしまうこともできない。時代、制度、仕事、他者との関係は異なる。問いたいのは、誰の苦しみがより大きな業績を生んだかではない。その人が私たちの用途のためだけにいるのではないと認める前に、なぜ業績の一覧を求めてしまうのか、ということである。

ディラックとは、美が仕事を導きうる点で出会う。前篇では、数学的導出、物理的解釈、実験による検証を分けた。理論の帰結を支持する実験は、方程式がどれほど美しいかを測定するものではない。

詩の伝承年数がある物理理論より長いからといって、真理の上位に置かれるわけでもない。伝承には教育、選択、偶然がかかわる。失われた作品の価値が、それによって否定されるわけではない。

後世の批評史そのものも、美が「離騒」に審査免除を与えたわけではないことを示す。劉勰は『文心雕龍・辨騷』で、かなり異なる先行評価を並べた。作品を経典に近づけて称える者がいる一方、班固は自己主張や怪異な素材を批判し、王逸はそれを経義へつなぎ直そうとする。劉勰は単純にどちらかを選ばず、褒貶には「抑揚過実」があるとして、論を確かめるなら言葉そのものを検証すべきだとした。

これは「美が認知の一形態でありうる」という主張に重要である。偉大な作品が現れたあと、後世に残る仕事が、ただそれをより正確に称賛することだけになるわけではない。作品は問いを変え続ける。経典との関係は何か。怪異は欠点なのか資源なのか。香草は倫理的な記号なのか、感覚的な物なのか、それとも同時にその両方なのか。

劉勰はさらに、楚辞が「山水」を音によって形にし、「節候」を文によって見えるものにすると述べ、その影響は一代の詞人に限られないとした。 「二千年残ったから真である」よりはるかに精密だ。後世に残るのは結論一つではなく、人が山水、季節、声、人物をもう一度区別して見るための方法かもしれない。

詩と物理の勝負ではない。自然について語る方程式は、それにふさわしい検証を引き受ける。経験を人の入れる形へ組み立てる詩も、どう組み立てたのか、誰を落としたのかと読者に問われうる。

「先に着く」の先は、いつも同じではない。「知る」も一種類の仕事ではない。

違いを消さないところに、出会う意味がある。

七 漁父

『楚辞』の「漁父」は、川辺で二つの声を出会わせる。伝統的には屈原の作とされるが、成立や伝承の問題を「会話の実録」で片づけることはできない。王逸の序は屈原の作であることと、楚の人々がその言葉を伝えたことの両方を述べている。『史記』にある関連の対話も、まったく同じ結末ではない。

作品中の屈原は、世間は濁り、自分だけが清い、皆は酔い、自分だけが目覚めている、と言う。追放の経験を、その区別の中に置いている。

漁父が問うのは別のことである。状況とともに生きることは、状況へ自分を渡すことなのか。水が変わるなら、使い方を変えることはできないか。生の全部を手渡さないままで。

屈原は受け入れない。洗った衣冠の清さによって拒絶を説明し、その言葉は死を選ぶところまで進む。

拒絶の重さを聞きながら、すべての拒絶に同じ終わりを義務づけずにいることはできる。漁父に対しても、順応が害を正当化する言い訳にならないかと問える。生き延びること自体を空白と呼ばなくてもよい。

彼は歌うのだから。

滄浪の水が清ければ、冠の紐を洗おう。濁っていれば、足を洗おう。

「漁父は詩を生まない」と言えば、作品の最後に残った声をちょうど消してしまう。同系統の歌は『孟子』「離婁上」にもあり、そこでは子どもが歌い、孔子が応じる。歌が違う篇に入り、違う対話を担う。それらを、一人の証人が保証した一度きりの場面にまとめることはできない。

「漁父」は、去ってそれ以上語らないところで終わる。全知の審判が勝者を宣告する一文はない。

屈原の譲らないものは、漁父の歌に消されていない。漁父の歌も、屈原の後世の名声に消されるべきではない。

美も認知になりうるという本篇こそ、この歌から問われなければならない。自分に賛成する声の中でしか美を聞けないなら、私は何を知ったのだろうか。

二つの声は、二つの認識姿勢として聞くこともできる。屈原は、適応が最後には同化になることを恐れる。漁父は、環境が変わったなら行動の仕方も変えられるのではないかと問う。あらゆる調整を降伏と呼べば、主体を守るための方策が見えなくなる。あらゆる順応を知恵と呼べば、権力が作った濁りまで免責しかねない。

だからこの対話は「より成熟した」勝者を決めなくてよい。本当に厳しいのは、双方に、自分が支払えない代価を言わせる点にある。歌を「状況に合わせる」という一句に置き換えられないのは、清い水、濁った水、冠のひも、足が具体的な動作を作るからだ。美は立場を記憶しやすくし、そのぶん問い返しやすくもする。

八 橋のたもと

屈原が川岸に沿って歩いてくる。裾は霧に濡れ、髪は少しほどけている。手には巻物もない。けれども衣の襞から、言葉がついて来たように香草の気配が立ちのぼる。

コントは暦を開き、来た人を見て、また紙へ目を落とす。名前には升目が見つかる。次にその人が言うことまで収まるとは限らない。

コントは膝の上で暦を閉じ、乾いた石の上を少し空ける。

「何を確かめてほしいのですか」とポパーが尋ねる。

「まず、最後まで聞いてほしい」と屈原は言う。

ディラックがそばに立つ。一人は方程式を追い、一人は香草と遠い旅を通して書いた。それだけで互いの内側がすべてわかるわけではない。紙の関係は再計算へ招くことができる。一行の詩も再読へ招くことができる。それぞれの招きに、それぞれの待つ時間がある。

川を渡って、漁父の歌が聞こえる。

屈原は聞いている。声を合わせはしない。その声を追い払ってほしいとも頼まない。

水には顔が映っている。一枚の落葉が過ぎると、顔は少し崩れ、またまとまる。秋だ。

石段を下りて浅瀬へ行き、衣の香草を一枝、水に置く。そして乾いた石のそばへ戻る。

草は水に流れていく。

人は岸に残っている。

次の一言も、まだ自分で語れる。

読書のための注記と出典

『史記』、王逸の注、劉勰「弁騒」はそれぞれ伝記・注釈・受容史であり、一つの目撃記録にはまとめない。「渉江」「橘頌」は伝統的な帰属に従う。橘の移植の難しさは詩と注の理解であり、現代植物学の通則ではない。「漁父」と『孟子』の歌は別の場面として扱う。没日の確定や「懐沙」の絶筆認定は行わない。

人物の比較は著者の読解であり、異なる思想の同一視ではない。作品、受賞、後世の名声が、その人の全判断の正しさを証明するわけでもない。史料と本文へのリンクを下に掲げる。

第八節の橋での出会い、動作、会話は文学的な創作であり、史実ではない。

王逸『楚辞章句』巻三 · 『史記』巻八十四「屈原賈生列伝」 · 『楚辞章句』巻二「九歌」 · 巻四「九章」 · 『楚辞章句』巻一 · 『詩経』「節南山」 · 「巷伯」 · 古代の蘭と現代のランをめぐる論考 · A General View of Positivism · 「Science: Conjectures and Refutations」 · 「Three Worlds」 · The Tacit Dimension 出版社紹介 · 『文心雕龍・辨騷』 · 中国非物質文化遺産網「端午節」 · 杜甫「春望」 · AMT/B/12 · GCHQ人物紹介 · 1963年の本人の文章 · 『楚辞章句』巻七「漁父」 · 『孟子』「離婁上」第八章

中国語・英語版を基に、日本語の読者に向けて独立に再構成したエッセイ。史料と詳注は 原版。