017 / 108 · 世界をつくる
ニュートン、一人で宇宙を組み上げた人
疫病のさなかの石造りの家から『プリンキピア』へ。リンゴから月へ。大きな構築は、答えのない場所を残しながら、今も重さを支えている。
一 疫病
1665年。ニュートンは二十二歳だった。疫病がケンブリッジの日常を断ち切った。
ロンドンの大疫病の影は各地に広がっていた。彼はリンカンシャーのウールスソープへ、生まれ育った石造りの農家へ帰る。途中で一度ケンブリッジに戻りながらも、1667年の春までの多くの時間をそこで過ごした。
1665年から1666年は、後に彼の「驚異の年」と呼ばれる。一晩ですべてがひらめいたという意味ではない。仕事が異様なほど密に進んだ時期だった。その名は、アインシュタインの1905年をも思い出させる。
あの石の家で、何が起きたのか。
ニュートンは級数、流率、求積の研究を進めた。変わっていく速さと、積み重なる量。その関係を新しい方法へまとめていく。微積分は何もないところに現れたのではない。フェルマー、デカルト、ウォリス、バローらが道を開いていた。彼は、その足跡のある道を非常に遠くまで進んだ。
プリズムで光も調べた。白い光が色の帯になる。色によって屈折の度合いが異なる。後に有名になった七色という区分は、自然が七つの独立した色の塊だけを用意したということではない。肝心なのは、ガラスが純粋な白を汚したのではなく、白い光そのものに異なる成分が含まれていたことだ。
地上の落下と空の月も、一つの問いの中に入り始めた。リンゴを引く重力は、月にまで届くのだろうか。万有引力の成熟した理論までは、なお二十年ほどの推論、論争、検証が必要だった。
二十二歳。疫病。田舎。その光景には驚かされる。だが、先人とも文通相手とも無縁な一人の人間が、無から物理学の全部を仕上げた場面ではない。
アインシュタインの1905年には四本の重要な論文が残った。ニュートンのこの時期には、数学、光学、重力の三つの研究が一緒に伸びた。一人は特許局で働き、一人は大学の日常を離れていた。どちらも、私たちが思い描く華々しい学問の舞台ではない。
苦しみが自動的に発見を生むわけではない。孤立は天才になる処方箋でもない。ここにいるのは、日常が途切れた後も仕事を続けた人だ。
この連作の比喩を借りれば、ニュートンは組み立てる側に、アインシュタインは鑿を入れる側に見える。ただし、一方は建てるだけ、他方は壊すだけという区分ではない。アインシュタインも建てた。ニュートンの構築もまた、天と地の古い境目を押し広げた。
二 組み立てる
1687年、『自然哲学の数学的諸原理』が刊行された。『プリンキピア』。後の人々が問いを立てる仕方まで変える本だった。
運動の三法則。
第一法則。慣性系で外力の合力がゼロなら、物体は静止するか、等速直線運動を続ける。動き続けるために、ずっと背中を押す手は要らない。
第二法則。運動の変化は、加えられた力と結びつく。質量が一定の場合を今日の記法で表せば、合力について F = ma となる。
第三法則。二つの物体が作用し合うとき、互いに及ぼす力の大きさは等しく、向きは逆になる。この二つの力は別々の物体に働く。同じ物体の上で勝手に打ち消し合うわけではない。
そこに万有引力が加わる。二つの質点の引力は、質量の積に比例し、距離の二乗に反比例する。F = Gm₁m₂/r²。広がりのある天体をどう計算に取り込むかには、幾何学、質量分布、証明が要る。
わずかな原理が、驚くほど広い計算の場所を開いた。
落ちるリンゴ。地球を巡る月。太陽を巡る地球。潮の満ち引き。ケプラーの惑星軌道。行き交う彗星。地面の近くで投げた石の弧。それらが共通の力学の言葉に入ってくる。もちろん、潮汐や月の運動、多数の天体の相互作用を精密に解く仕事は、四つの文では終わらない。
空気抵抗を無視し、地表付近の重力を一定とすれば、石の軌道は放物線になる。理想化した二体問題からは、ケプラー型の軌道を導ける。仮定は恥ではない。明示して初めて、計算は自分の足場を知る。
足もとから頭上まで、一組の原理。リンゴと月を、互いに関係のない二種類の物理学に分けなくてよい。ここに、この構築の強さがある。
アリストテレスの伝統は、天上のエーテルの運動と、地上の四元素の変化を区別していた。その境界は、その後の天文学やガリレオたちの研究ですでに揺らいでいた。ニュートンはその変化を、体系的に推論できる新しい規模へ進めた。
しばらく始皇帝を隣に置いてみる。一人は地域を共通の行政的な尺度へまとめ、一人は天地を共通の数学の言葉へまとめた。命令は権力で実行される。物理理論は測定に向き合わなければならない。重ねて見ているのは統一への志向であり、人と物を同じ材料とみなしているのではない。
王朝の寿命で理論の寿命を測ることもできない。統一後の秦の王朝はおよそ十五年。ニュートン力学の影響は二世紀を越え、今も働いている。
三 空白のありかを知っていた
これほど強力に組み上げても、ニュートンはすべてを説明し終えたとは言わなかった。
重力は、そもそもどのように働くのか。
地球と月は数十万キロメートル離れている。両者の関係を数式に書けることと、その究極の原因を知っていることは違う。
1713年に『プリンキピア』へ加えられた「一般注解」で、彼は書いた。Hypotheses non fingo。「私は仮説を作らない」。重力のこうした性質を生む原因を、まだ現象から導いていないのだと。
ここには、立ち止まりたい区別がある。運動を非常に正確に計算できる。それでも、なぜ自然にこのような力があるのかを知ったことにはならない。
科学で仮説を立てるな、という禁止ではない。ニュートン自身、別の場所ではエーテルや物質の作用について推測し、問いを並べた。この一節では、裏付けの得られていない説明を、確かな知識として差し出さなかった。
二百年以上後、一般相対論は重力を時空の幾何学で記述する。自由落下する物体は曲がった時空の測地線を進む。重力場の変化には伝播があり、重力波は光速で伝わる。幾何学で表すからといって、変化が遠くまで瞬時に届くことにはならない。
この文章の言い方なら、ニュートンは未知のための場所を空けていた。よく計算できる理論を、そのまま最後の説明とはしなかった。
その態度は、秦の書物の禁止による異論の抑圧と並べて見ることができる。ただし、未解決の物理的な問いと、一人の人間が発言する権利は、同種の「残り」ではない。二つの時代の長さから、善を賞し悪を罰する歴史の公式も出てこない。
世界への関心は、力学の入口で止まらなかった。
『プリンキピア』よりずっと前から、彼は錬金術と神学を研究していた。写本を写し、実験し、教会史を照合し、『ダニエル書』と『ヨハネの黙示録』を読み、預言の年代を考える。それらは数学と同じ机にあった。物理学を「完成」してから始めた引退仕事ではない。
そこでも彼は、隠れた秩序を探していた。その願いを問うことはできる。しかし、研究分野から病名を推定したり、成功のあまり自分は何でも知っていると思い込んだ、と内面を決めつけたりはできない。
1720年、別種の秩序が彼に大きな損失を与えた。南海泡沫事件である。取引記録の研究からは、早く売って利益を得た後、高値で再び買った流れが見える。損は大きかった。よく挙げられる二万ポンドには推計と伝聞が交じる。それで無一文になったわけではない。
天体の運動は計算できても、人間の狂気は計算できない。そんな言葉が広く彼に帰されている。伝わり方は『プリンキピア』の文章ほど確かではない。帳簿の横で録音された一言ではなく、この物語に残る響きとして聞けばよい。
月の軌道と市場での判断には、違う知識が必要だ。財産を失っても万有引力が反証されるわけではない。ただ、一つの領域で得た精密さが、暮らしのすべてを支配する力にはならない。F = ma は、人間についての学問の全部ではない。
四 もう一つの顔
大きな理論を築けることは、他人を公平に扱う保証にはならない。
ニュートンとライプニッツは、それぞれ独立に微積分を発展させた。初期の研究はニュートンが早く、公刊はライプニッツが先だった。後者の記法と方法も、その後に大きな影響を与える。優先権争いはやがて数学を越え、名声、剽窃の告発、学問上の権力をめぐる争いとなった。
1712年、王立協会は調査委員会を設けた。会長ニュートンは資料の選定と報告書の執筆に深く関わった。報告書は彼の優先権を擁護し、ライプニッツの剽窃を不当に示唆した。後には匿名でその報告書を論評する。当事者が機関の声を借り、自分のために判決を下す。その人が偉大だからといって、小さな問題にはならない。
光学と引力をめぐるフックとの対立も、傷を残した。後世には、フックの肖像画が見つからないことを、ニュートンが破壊した物語にする人もいた。だが、その肖像が王立協会に掛かっていたかどうかからして確かではない。争いの存在は、絵を壊した証拠にはならない。
別の机は王立造幣局にあった。1696年に監事、1699年には長官となる。容疑者や情報提供者から話を聞き、証言を集め、偽造貨幣を訴追した。紙の上の数学遊びではない。捜査は当時の苛烈な刑罰制度に入り込み、処刑された被告もいた。
農家、論文、委員会、貨幣、尋問。一つの才能がすべてを照らすわけではない。一つの過ちがすべての仕事を焼き尽くすわけでもない。
ゲーデルの不完全性定理が扱うのは、特定の形式体系である。人柄が「無矛盾だが不完全」だと証明する定理ではない。ニュートンが権力をどう使ったかを考えるには、手紙と行動、影響を受けた人々が必要だ。倫理的判断に数学の判を押す必要はない。
ワシントンが権力を返したことは、人々を奴隷として使った事実を消さない。一方、アインシュタインによる量子理論の完全性への異論を、奴隷制や学術権力の不公正と同じ道徳的な過ちに並べることはできない。問題はそれぞれに見なければならない。偉大な仕事は無罪証明ではない。批判も、その人が人であるという位置を取り消すものではない。
五 巨人の肩の上で
1676年、ニュートンはフックに書いた。「私がより遠くを見たのだとすれば、それは巨人たちの肩に乗っていたからです。」
同じ手紙は、デカルトとフックの仕事も認めている。この一文は謙虚さの表れと読まれ、皮肉ではないかとも疑われてきた。フックの体格に、確かめられない心理劇を背負わせる必要はない。まず、言葉が認めている関係を見たい。
その構築は、ゼロから始まっていなかった。
ケプラーは惑星運動の規則を記述した。ガリレオは落下と運動の研究を進めた。デカルトは代数と幾何学を新しく結びつけた。バロー、ウォリス、観測や問いを持ち寄った人々も道にいた。ハレーの励ましと出版への援助によって、『プリンキピア』は机の外へ出ていった。
ニュートンはそれらを受け継ぎ、変えた。断片をそのまま箱に詰めたのではない。離れていた結果が、互いに導かれ、確かめ合えるようにした。
孔子とホメロスを近くに置けば、限られた共通点が見える。伝えることは、創ることと矛盾しない。孔子のいう「述」と、ホメロス伝承が口頭の上演から叙事詩の形を得る過程は、どちらも一人の編集作業には還元できない。ニュートン力学の先取りでもない。
それでも、新しいものはしばしば、誰かがすでに生き、問い、歌っていた場所に育つ。先人の名を挙げても、自分の仕事は小さくならない。
受け継ぐとは、繰り返すだけのことではない。別の手に渡ったものが、新しいつながりと力を得ることがある。
六 二百年
ニュートンの構築は、どれほど長く持ったのか。
1687年の『プリンキピア』から1905年の特殊相対論まで、二百十八年。一般相対論の1915年までは、さらに十年。この二つの日付は、時空と重力について別々の層で起きた変化を指す。
その長い間、ニュートン力学は工学と天文学を深く変えた。人々はそれと後の発展を用い、橋、船、鉄道を造り、惑星と彗星を計算した。熱、電気、磁気、光の研究も育っていた。物理学は一冊の『プリンキピア』だけではなかった。
難問も、アインシュタインの登場を待っていたわけではない。十九世紀には水星の近日点の異常な前進が問題になっていた。大成功を収めた理論であっても、二百年間まったく食い違いがなかったわけではない。
そしてアインシュタインが、問いの尺度を変える。
特殊相対論は高速での時空関係を書き換え、一般相対論は重力を書き換えた。光速より十分に遅く、重力場が弱いなど、適切な条件の下では、ニュートン的な記述が優れた近似として再び得られる。
近似とは、いいかげんという意味ではない。精度があり、範囲がある。橋を造るのに十分な式でも、精密な天体観測には足りないことがある。月の軌道でさえ、高い精度を求めれば相対論的な補正を省けない。
だから「含まれた」と言うなら、条件が付く。新しい理論は、古い理論がなぜ広い範囲で有効なのか、どこで足りなくなるのかを説明する。絶対的な空間と時間が、そのまま新理論へ引っ越したのではない。
量子論も、微視的な世界の記述を変えた。それで古典力学が教室、工場、発射場から去ったわけではない。使い続けられるからといって、あらゆる尺度で最後の答えなのでもない。
この関係を連作の全員へ当てはめることはできない。ソクラテスの空き地は、誰かの低速極限ではない。孔子の仁は、数式の近似ではない。カントの物自体は、測定誤差ではない。思想が異なれば、比較の物差しも変えなければならない。
ニュートン理論の適用範囲は、物理学の推論と実験によって判断される。ゲーデルの定理が歴史の中でまた実現した、ということではない。ここでいう「残り」は、まだ説明できない現象から目を離さないための言葉だ。
七 この連作の人々と
もう一度、人々を並べてみる。連作が作る読みの風景であって、一生を一文で裁く一覧ではない。
始皇帝は制度の統一を広げ、書物の禁止と殺害によって異論の場所を狭めた。王朝は短く、制度の遺産は変わりながら続いた。ワシントンは二度権力を返したが、農園の全員を自由にはしなかった。アレクサンドロスの統一王権は分かれたが、文化的なつながりまでゼロには戻らなかった。
カントは三つの批判書を書き、理性の限界を問うた。ブッダは筏で渡り、筏に執着しないことを教えたのであり、教えをすべて壊せと言ったのではない。アインシュタインは美と秩序を道しるべにしながら、理論と世界の隔たりに向き合った。ホメロスの伝承は歌声を世代から世代へ、やがて文字へ運んだ。
ニュートンは天地の多くの運動を、共通の数学的関係に入れた。後の理論は地図の境界を引き直したが、描かれた道をすべて消しはしなかった。
今日のロケットも橋も、古典力学とその後の発展に頼っている。この連作で受け継げる仕事が彼のものだけ、というわけではない。ただ、変えながら受け継ぐことがひときわ具体的に見える。古い式は紙に残り、計算を今も物へ結びつける。
隙間のない建物ではない。何度も使える強さがあり、なお検証に開かれている。頼れることと、すべてを説明できることは違う。
私はそれを、とても頑丈な一個の煉瓦として思い描く。ニュートンを全員の勝者にするためではない。後から来た多くの人が、今もそこへ重さを預けられるからだ。
この連作が想像する橋のたもとには、鑿を振るう人、組み立てる人、人生に削られた人、去った人がいる。ニュートンは橋の全部ではない。それでも彼の煉瓦がなければ、かなり大きな一続きが欠けてしまう。
八 リンゴ
最後に、リンゴへ帰ろう。
ウィリアム・ステュークリは、1752年にまとめた回想録に、1726年のニュートンとの会話を記した。二人は庭で茶を飲んでいた。ニュートンは若い頃、リンゴが落ちるのを見て重力を考えたという。
その回想では、なぜリンゴは横や上ではなく地球の中心へ落ちるのか、と問う。物質が互いに引くなら、リンゴも地球を引いている。問いは木の下から外へ、やがて月と天体へ伸びていく。
頭にリンゴが当たった記録ではない。発見の全過程を再現できる、その場の研究ノートでもない。それでも、老いた人が自分の仕事の始まりをどう語ったかには、耳を傾ける価値がある。
リンゴが一つ落ちる。一人の人が、「そういうものだから」を最後の答えにしない。
この文章は、その問いを鑿と呼ぶ。見慣れたことを、もう一度不思議にする。その後は一瞬のひらめきで全部が片づいたのではない。二十年ほどの計算、対話、修正、構築が続いた。
問い。なぜリンゴは落ちるのか。答え。万有引力で、月と結びつけてみる。F = Gm₁m₂/r²。答えは問いを遠くへ運び、新しい問いも残す。
最後の光景はウールスソープに置いておこう。二十代初めの若者、石の家、庭、落ちるリンゴ。晩年の回想から広げた文学上の一場面であり、失われた日記に現場を書き足すものではない。
後に彼は、計算できる天地を組み上げた。宇宙の全部ではない。それでも、木の下の人が空の月を新しく見直すには十分だった。
読書のための注記と出典
ニュートンの誕生日は英国旧暦1642年12月25日、グレゴリオ暦1643年1月4日。1665年夏には二十二歳だった。疫病期の帰郷中にも短いケンブリッジ滞在がある。「驚異の年」は初期研究の集中を指し、田舎で『プリンキピア』が完成したという意味ではない。微積分には長い前史があり、連続した光のスペクトルを七色と呼んでも、成分が七つに分断されているわけではない。
運動法則は1687年の『プリンキピア』の「公理、または運動の法則」による。F = ma は慣性系で質量が一定の場合の現代的表記。本文の引力式は質点に対するもので、広がりのある物体には質量分布を扱う必要がある。軌道、潮汐、投射体の計算には理想化と後世の発展が含まれる。
Hypotheses non fingo は1713年の第二版に加わった「一般注解」にある。リンク先は1729年の英訳。現象からまだ導けない引力の原因についての言葉であり、仮説を生涯禁じた宣言ではない。一般相対論でも重力の変化は瞬時ではなく、重力波は光速で伝わる。
錬金術、聖書研究、数学的な自然哲学は長く並行していた。宗教解釈には当時の主流教義との相違もある。研究対象や信仰から後世の病名を付けることはしない。南海会社株の取引は記録に基づく研究を参照した。二万ポンドという損失額や「人間の狂気」の名言を、原帳簿や自筆文書と同等には扱わず、単一の現代通貨額へも換算しない。
流率研究の着手はニュートンが先で、ライプニッツは独立に発展させ、先に公表した。1712年の調査、その後の刊行、ニュートンの匿名論評は区別する。会長かつ当事者としての介入は重要な問題である。フックの肖像の存在、所有、所在に関する証拠から破壊を断定できない。造幣局資料は尋問、証拠収集、訴追を裏付けるが、変装して潜入したという劇的な場面は補わない。
巨人の肩の言葉は1676年のフック宛書簡にあり、デカルトとフックの貢献も認めている。フックの体格への侮辱だったとは確定できない。孔子やホメロスとの比較は、継承と創造についての筆者の読みであり、同一の歴史過程を主張するものでも、先人を受動的な材料提供者へ縮めるものでもない。
水星の近日点移動の異常は十九世紀から問題となった。1905年の特殊相対論と1915年の一般相対論は役割が異なる。古典的近似には低速、弱い重力場、必要な精度などの条件があり、微視的現象には量子論も関わる。ゲーデルの定理は人格、物理学の経験的限界、文明の寿命を証明しない。non dubito は、主体が単なる手段ではなく目的であることを揺るがせにしないという意味で、行動への批判を禁じない。
リンゴの話は、ステュークリの1752年の回想録に記された1726年4月15日の会話による。頭に当たる場面はない。「宇宙」、煉瓦と橋、人物を並べた風景、最後の農家と庭は筆者の解釈的な描写であり、先人や協力者を排除せず、新しい史料を提供するものでもない。
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中国語・英語版を基に、日本語の読者に向けて独立に再構成したエッセイ。史料と詳注は 原版。