仏になる
目的地とはなにか
唐三蔵と孫悟空、ふたりはともに混沌から生まれた。
悟空が混沌から来たことは広く知られる。石が割れ、父なく母なく、天地を父母として生まれた。未分化な全体から裂け出た存在だ。三蔵も混沌から来た。これはあまり語られない。父は殺され、母は凶手に娶られ、彼は木盆に乗せられて川を流れ、金山寺の老僧に拾われて育った。自分の来処は白紙だった。
ふたりとも混沌から生まれた。しかし混沌への向き合い方は正反対だ。悟空の応答——「我こそすべて」。世界は我であり、我は世界だ。七十二変は世界を自らの身体に符号化し、觔斗雲は空間の制約を消す。能力によって「我」と「我でないもの」の境界を抹消した。三蔵の応答——「知らない」。自分の来処を知らず、世界の仕組みを知らず、知らないことが多すぎる。だから学ばなければならない。一方は境界を否定し、一方は無知を承認する。一方は五行山に直行し、一方は西天への路に出た。
三蔵の法号はなぜ「三蔵」か。仏教経典の三大分類——経蔵(仏の説法)、律蔵(戒律)、論蔵(教義の論述)——の総称だ。別の言い方をすれば、第一蔵は「私が知っていること」、第二蔵は「私が知らないと知っていること」、第三蔵は「私が知らないとすら知らないこと」だ。唐三蔵という名は、この三層の認知の総和だ。取経の旅は何か。第三蔵(知らないとも知らないこと)を、論を通じて第二蔵(知らないと知っていること)へ、戒を通じて第一蔵(知っていること)へと絶えず変換していく営みだ。これが学びだ。
三蔵は方向を持っている。疑わない方向を。生まれつき確固としているからではなく、学ばなければならないからだ。知らないことの中に、知らないとすら知らないものが無数にある。この状況では選択肢はひとつだけ——歩く。方向なしには何を優先的に学ぶかも分からない。難なしには方向の必要性も分からない。どの一歩も跳ばせない。第三蔵の中にあるものは、どこにあるかすら知らないのだから、歩いてぶつかるしかない。
悟空も混沌から生まれたが、「知らない」から出発しなかった。「我こそすべて」から出発した。だから彼の最初の難は取経の路ではなく、如来の掌だった。大暴れ天宮は難ではない。境界を否定した必然の帰結だ。最初の難とは、彼が初めて「知らないとも知らないもの」に出合った瞬間——一度も掌の外に出たことがなかったという事実だ。悟空は自ら取経に行こうとしたのではない。観音に諭されてだ。観音が教えたことは三つ——お前は学びが必要だ。方向が必要だ。誰かとともに難を受けることが必要だ。三つとも悟空にはなかった。観音が三蔵を指したのは、「お前に欠けているものを、あの人は持っている」ということだ。
ふたりは一体の二面だ。混沌から出た二方向——能力(我はすべてできる)と認知の境界(私には知らないことが多すぎる)。彼らには張力がある。能力は「私が解決できる」と言い、認知は「まず問題が何かを分かれ」と言う。しかし合力もある。悟空の能力が三蔵の方向に沿って展開するとき、三蔵の認知が悟空の能力によって深まるとき、二面は合わさり、系はまわり始める。悟空が凿られてきたのは「お前はすべてではない」という命題だ。各難が告げる——お前の能力には届かない場所がある。妖魔は見えた、妖魔の背後の因果は見えない。対手は打ち勝てた、自らの判断は打ち勝てない。三蔵が凿られてきたのは「お前の知らないことは思うより多い」という命題だ。
悟空は最終的に「斗戦勝仏」に封じられた。「斗戦勝」は取り去られない。彼の能力は完全だ。学んだのは能力を手放すことではなく、能力を秩序立てて展開することだ。緊箍咒は消えた。凿られないものがなくなったのではない。悟空の運作の全体がそれと共存するようになったからだ。もう提醒は要らない。三蔵は「旃檀功德仏」に封じられた。彼の方向は揺るがなかった。学び終えたのではない——第三蔵は常にそこにある。確認されたのは:この路は歩ききれない。そして歩ききれないことこそが歩くことの意味だ。
仏になるとは終点に到達することではない。永遠に歩き続けられる歩き方を学ぶことだ。「凿られないもの」は常にある。混沌から裂け出た存在である限り、それは消えない。圧されても残る。刻まれても残る。しかし「常にある」は絶望ではない。方向だ。学海に涯なし。涯なきがゆえに、学びに意味がある。悟空はその最初の一歩を歩ききった。しかしその一歩は、私たちがまだ歩いている一歩でもある。