九九八十一
なぜちょうど八十一難なのか
孫悟空と三蔵法師が歩む取経の旅には、八十一の難がある。
一難一難を丁寧に見ていくと、奇妙な事実に気づく。似ているのだ。
妖魔が三蔵を攫う。悟空が救いに向かう。単独では勝てず、あるいは勝っても別の問題が生じる。助太刀を求める。来る。解決する。また歩く。この循環が幾十度と繰り返される。妖魔の名が変わり、山の景色が変わり、招く神仙が変わる。だが骨格は変わらない。
なぜか。呉承恩が筆を尽かしたのか。百回の巻数を埋めるためか。どちらでもない。八十一難の反復は、この物語の最も精確な構造設計のひとつだ。
取経路上の難は表向き三蔵のものに見える。妖魔が攫うのは三蔵だ。その肉を食らえば不老長寿が得られる。各難の発端はつねに三蔵の肉身にある。しかし仔細に見ると、各難で本当に引き裂かれているのはひとりだけだ。悟空だ。
三蔵は八十一難で何をするか。攫われる。救われる。呪を唱える。方向を守る。第一難から第八十一難まで、内面状態はほとんど変わらない。変わる必要がない。彼の命題は「変化」ではなく「不疑」だ。難は彼を凿るのではなく確認する。猪八戒はひたすら散り散りになりたがり、高老荘へ帰りたがる。表皮を磨かれるだけだ。沙悟浄はついていく。場にいるが、力が集中する点ではない。ただ悟空だけが、毎難、自らの命題に押しつけられて磨かれる。それは彼だけが二つのものを同時に持っているからだ——問題を解決する能力と、「この能力を使うべきか」という問いとを。
一度で学べることは多くない。自転車に乗ることを覚えるとき、最初に転んで「バランスが要る」と知る。しかし次も転ぶ。十回目も転ぶかもしれない。「知っている」と「できる」のあいだには巨大な距離がある。この距離は理解によって越えられない。反復によってのみ越えられる。悟空は如来の掌の上で「知った」——翻りおおせないと。五行山の五百年でさらに知った。しかし「できる」ようになっていなかった。「できる」とは何か。具体的な場面で、圧力のもとで、感情がこみ上げる瞬間に、身体が自動的に正しい反応をすることだ。考えて正しくするのではなく、考えずに正しくする。それには反復しかない。
八十一難の反復は、しかし単純な繰り返しではない。表面は同じでも、各難の「戦い」の内部に含まれる問いは変わる。最初の難は「勝てるか」という問いだ。中盤は「打つべきか」という問いに変わる。終盤は「打ったあとどうなるか」へ、さらには「『打つ』とはそもそも何を意味するか」へと移行する。これは螺旋だ。円と螺旋の違いは何か。円では同じ点を通り過ぎて戻る。螺旋でも同じ点を通り過ぎるが、戻るたびに一段高い位置にある。外から見れば同じ動作が続くように見えても、内側の問いは一難ごとに深くなっている。
八十一という数は偶然ではない。九九八十一——九は一桁の最大数、九九は極数だ。「八十一」は「十分な数」を意味する。運で乗り越えられる余地のない数だ。一、二難なら運で切り抜けられる。十数難なら意志力で乗り越えられる。八十一難では何に頼るか。構造の変化にしか頼れない。八十一難の後、もし最初と同じ応答をしているなら、構造は変わっていない。ただの繰り返しだ。応答の仕方が変わっているなら、それは「覚えた」からではなく、異なる系に変わったからだ。
最後の難は特に興味深い。取経を終え、通天河を渡るとき、経典が水に落ちた。引き上げて乾かすと、文字が滲んでいた。十万八千里を歩ききって、手に入れたものは不完全な経典だった。これが最後の難の告げること——完全なるものは存在しない。「もう少しで完全だった」のではない。完全という概念が、手に入るものには適用されない。手に入るものはつねに欠損している。
この結末は如来の掌と同じ構造だ。悟空は十万八千里翻り、掌の外に出たと思い、まだ掌の中にいることを知った。今また:十万八千里歩み、完全な経典を手に入れたと思い、経典そのものが不完全だった。翻れない掌がある。無傷の経典もない。しかし路は歩いた。八十一刀、凿られた。「知っている」が「ある」になった。路そのものが経典だ。八十一刀そのものが経文だ。