獅駝嶺
三頭の大妖怪が支配する国で
獅駝嶺は試練ではない。
獅駝嶺は霊山の鏡写しだ。
普通の妖怪の巣ではない
取経の道にはたくさんの妖怪が現れた。山に居座り、人を捕まえ、悟空と戦い、勝ったり負けたりして過ぎ去っていく。
獅駝嶺はそうではない。
獅駝嶺は一つの制度だ。
三人の妖王——青毛の獅子精、黄牙の老象精、大鵬金翅雕。彼らは獅駝国を占拠した。一つの山ではない。一つの国家を占拠したのだ。国の人間はすべて殺された。屍の山、血の海。腐臭が漂う。小妖怪たちは人肉を飯に食い、人の皮を布団代わりにしている。
一人の妖怪が悪さをしているのではない。一つの仕組みが動いているのだ。組織があり、階層があり、分業があり、規模がある。霊山は人を救う。獅駝嶺は人を殺す。霊山が救う数だけ、獅駝嶺は殺す。
二つの制度。表向きは対立している。構造上は対称をなしている。
この三人の妖王とは誰か
青毛の獅子精は、文殊菩薩の乗り物だ。以前、烏鶏国で姿を現したことがある。あのときはミッションを帯びた演技だった。今度は違う。全力を解放している。
黄牙の老象精は、普賢菩薩の乗り物だ。能力は獅子精に劣らない。凶暴さはさらに勝る。
大鵬金翅雕は、如来の叔父を名乗る。事実上、如来と同格の存在だ。
文殊の乗り物。普賢の乗り物。如来の親戚。
この三人は野放しの妖怪ではない。システムの内部にいる者たちだ。平頂山の回で述べたように、金角と銀角は太上老君の童子だった。獅駝嶺は平頂山よりはるかに深い。金角と銀角は二人の小童子が遊びに抜け出してきたのだが、獅駝嶺は三人の最高位の存在が、霊山と対称をなす殺戮の制度を丸ごと作り上げたのだ。
しかも獅駝嶺は陰に隠れていない。堂々と明るみにある。霊山は知っている。霊山は認めている。それは別の制度であり、霊山と共存している。
如来は何を言ったか
悟空は勝てない。援軍を呼ぶ。最終的に如来が自ら乗り出す。
如来は大鵬金翅雕を収めた。どのように収めたか。仏頂に閉じ込めた。そして一つの身分を与えた——護法だ。
一国の人間を殺した。屍の山、血の海。そして最後には定員枠をもらった。
如来はこう言った、大意は——「おまえの面倒は見てやる。供物があれば、まずおまえに食わせよう」。
これがどんな霊山なのか。
十万八千里を歩いて辿り着こうとしていた霊山だ。疑いなく歩き続けた先にある目的地だ。その終点には、「まずおまえに食わせよう」と言う如来が座っている。
悟空は崩れた
悟空は獅駝嶺で崩れた。
勝てなかったからではない。取経の道で勝てないことは何度もあった。援軍を呼べばいいだけだ。
悟空が崩れたのは、師匠が死んだかどうかも確かめないまま、「もう嫌だ」と言い出したからだ。
「勝てないから嫌だ」ではない。人生を疑い始めたのだ。
疑ったのは自分の能力ではない。霊山を疑った。この道を歩くことの意味すべてを疑った。
お前は霊山は善いものだと言った。取経は天下のためだと言った。この道を歩き切れば正果を得ると言った。
では私が目にしたものは何か。文殊の乗り物が人を殺す。普賢の乗り物が人を殺す。如来の叔父が一国の人間を全員殺した。如来が来たのは正義を行うためではない。殺した大鵬に定員枠を与えるためだ。「まずおまえに食わせよう」。
悟空はもうやめると言った。怠けているのではない。如来に問いを突きつけているのだ。お前はいったい何をする者なのか。お前の霊山とは何物か。私はずっとお前に従って空を学んだ、打たないことを学んだ、できることとすることの間に間隙を置くことを学んだ。お前は私に手も足も出ない和尚を連れて十万八千里を歩けと言った。この道は歩く価値があると信じさせた。
そしてお前は今、一国を殺した妖怪がお前の叔父で、しかもその者に仕事まで与えたと言うのか。
悟空は笑えばいいのか、泣けばいいのか。
霊山の鏡
獅駝嶺は霊山の鏡写しだ。
霊山は人を救う。獅駝嶺は人を殺す。霊山は法を説く。獅駝嶺は肉を食う。霊山には秩序がある。獅駝嶺にも秩序がある——殺す秩序だ。霊山には如来がいる。獅駝嶺には大鵬金翅雕がいる。
二つのシステム、互いに映し合う。
そして両者は対立していない。共存している。霊山は獅駝嶺を消滅させなかった。霊山は獅駝嶺の首領を取り込んだ。大鵬金翅雕は護法になった。人を殺す者が護法になった。制度は覆されなかった。制度は吸収された。
これは何を意味するのか。
霊山は獅駝嶺を含んでいる。
お前は霊山は純粋だと思っていた。霊山に辿り着けば闇はないと思っていた。真経に血は混じっていないと思っていた。
獅駝嶺はこう告げる——霊山の仏頂には一国を殺した大鵬が閉じ込められている。霊山の護法には人食いが座っている。真経は屍の山と血の海の代価で書かれた。お前が求める光明の裏側には、この闇がある。
霊山だけを欲しがって獅駝嶺を拒絶することはできない。両者は一つのものの二つの面だ。
すべての人の物自体
これが獅駝嶺の物自体だ。一人のものではない。すべての人のものだ。
霊山を求めるなら、獅駝嶺を受け入れなければならない。真経を求めるなら、屍の山と血の海を受け入れなければならない。如来を求めるなら、「まずおまえに食わせよう」と言う如来を受け入れなければならない。光明を求めるなら、光明の代価を受け入れなければならない。
世の中すべてに代価がある。良い余項だけを欲しがって、悪い余項を拒否することはできない。
第八篇で述べた——凿り砕けないものは常にそこにある。消滅させることはできない、共にあるしかない。
獅駝嶺はこの言葉の最も極端な展開だ。共にあるべきものは、自分自身の境界だけではない。自分自身の過去だけでもない。自分自身の凿り砕けないものだけでもない。この世界そのものの構造と共にあるのだ——霊山があれば獅駝嶺がある、人を救う者があれば人を殺す者がある、真経があれば血がある。
お前は受け入れるのか。
もう一つの半分
ここまでが一つの半分だ。悟空が如来に問う。如来はなぜ人殺しの大鵬に定員枠を与えるのか。霊山とは何をするところなのか。
この半分は十分に鋭い。しかしこの半分は責任を如来に押しつけている。
もう一つの半分は口にするのがより難しい。
如来の慈悲は、大鵬だけに与えられたのではない。悟空にも与えられていた。
悟空が天宮を大暴れしたとき、彼は何者だったのか。システム全体をかき乱す存在だった。丹炉を蹴り倒し、蟠桃の宴を荒らし、天兵天将を打ちのめした。如来は彼を殺さなかった。五百年間押さえ込んで、それから一本の道を与えた。
大鵬は一国の人間を殺した。悟空は天宮全体を荒らした。如来が二人に対してしたことは、構造上は同じだ。殺すのではなく収める。一つの場所を与え、新しい構造の中で存在し続けさせる。
悟空に如来を問う資格があるのか。
取経チームの他の者たちを見てみよう。
沙悟浄。流沙河。彼はそこで何をしていたのか。人を食っていた。九世の取経人を食った。九人の唐僧の前世が彼に食われた。頭蓋骨を首に提げて首飾りにしていた。
八戒。高老庄に来る前はどうだったか。天篷元帥が降格されて豚になった。人を食ったことがあるのか。ある。
唐僧。慈悲心が深く、殺生を一切しない。しかし女人国で子母河の水を飲んで妊娠した彼は、胎を流す水を飲んだのか。飲んだ。その子はどうなったのか。
道中では?五荘観で人参果を盗んだ。女人国で国王を騙して偽の婚約をして通関文書を手に入れた。老亀に寿命を聞いてやると約束しておきながら、それを裏切った。
これらはすべて正当だったのか。
お前たちのチームが道中でしてきたことが、大鵬と本質的にどう違うのか。程度は異なる。構造は同じだ。自分たちの目的のために、他者を傷つけ、利用し、裏切った。
大鵬は自らの存在のために一国の人間を殺した。お前たちのチームは取経のために一道中の人々を傷つけた。
誰が清潔な場所に立って他者を指差し「お前は汚い」と言えるのか。
如来は悟空を叱らない
如来は悟空を叱らない。
如来が弱いからではない。如来に非があるからではない。
叱れば罰になってしまうからだ。「お前が悪い、私が正しい」になってしまう。清算できる勘定書きになってしまう。叱って罰したら帳消しになって、また歩き出せばいい、ということになる。
如来が叱らないから、悟空が自ら悟る機会が生まれる。
何を悟るのか。
自分が問うているそのものが、自分の中にもあることを悟る。如来がなぜ大鵬に定員枠を与えるのかと問う。しかし自分自身が如来に定員枠を与えられた者だ。霊山がなぜ人殺しの存在を許容するのかと問う。しかし自分自身がかつてすべてをかき乱した存在として許容された者だ。
大鵬への如来の慈悲と、悟空への如来の慈悲は、同じ慈悲だ。慈悲は人を選ばない。悟空に与え、大鵬にも与える。自分に与えられた慈悲を受け入れるなら、他者にも与えられることを受け入れなければならない。慈悲を受け取るに値しないと思う者にも、だ。
これこそが真の物自体だ。
如来の問題ではない。大鵬の問題でもない。悟空の問題でもない。すべての者の中にこのものがある。すべての者がかつて他者を傷つけた。すべての者が慈悲に覆われてきた。すべての者に、慈悲を自分だけのために欲しがる資格はない。
誰も責任を負わない。なぜならこれは責任の問題ではないからだ。これは構造だ。
また歩き続ける
悟空は崩れた。騒いだ。問いを突きつけた。
如来は説明しなかった。如来はただ大鵬を収め、定員枠を与え、取経チームに歩き続けさせた。
そして悟空は歩き出した。
他の者には彼が何を悟ったかわからない。もしかすると彼自身もうまく言葉にできないかもしれない。しかし獅駝嶺の後、何かが変わった。
彼はついに、なぜ如来が自分を殺さなかったかを理解した。
慈悲だからではない。慈悲だけではない。
如来が彼を必要としているからだ。霊山が彼を必要としているからだ。
彼が善いからではない。彼が善くなれるからだ。
如来が見るのはお前が今何者かではない。お前が何者になれるかだ。大鵬が一国を殺した——如来が見るのは彼が人を殺したことではなく、殺さないようになれることだ。悟空が天宮を荒らした——如来が見るのは荒らしたことではなく、荒らさないようになれることだ。収めることは報酬ではない。収めることは如来の賭けだ——お前は別の何かになれる、という賭け。
如来はすべての者の罪業を背負った。大鵬を収めることは背負うことだ。悟空を収めることも背負うことだ。「まずおまえに食わせよう」も背負うことだ。一つの獅駝嶺を収めるたびに、如来はさらに一つの闇を背負う。霊山の一つ一つの煉瓦はすべて如来が背負ったものだ。五百羅漢の過去も、三千揭諦の過去も、斗戦勝仏の過去も——すべて如来が背負っている。
これこそが大慈大悲だ。闇を知らないのではない。闇を知り、闇を背負い、闇を霊山の一つの煉瓦に変える。
悟空は服した。
打ち負かされたのではない。圧力で屈服させられたのでもない。如来が何をしているかを見たのだ。自分が思っていたよりはるかに大きなことをしていた。霊山に座って命令を下す仏ではない。すべての獅駝嶺を背中に背負った者だ。
悟空は誰にもこれを語らなかった。
これが最も深い空だ。悟っても言わない。
泣いたり笑ったりしながら、また歩く。彼は霊山が何であるかをわかった。霊山は無数の収められた獅駝嶺から構成された場所だ。霊山の光明は闇から精錬されたものだ。如来はその光明の中心に座り、背にはすべての者の罪業を負っている。
悟空は歩き続ける。疑わなくなったからではない。服したからだ。
服することと疑わないこととは違う。疑わないとは方向を疑わないことだ。服するとは全体像を見たことだ。光明と闇がどのように絡み合っているかを見た。如来がその中間で何をしているかを見た。この構造の中での自分の位置を見た。
そしてお前は言う——わかった。歩こう。
次の獅駝嶺
最後の問いだ。最も深い問いでもある。
取経チームは今回、霊山に獅駝嶺を収めさせた。大鵬は仏頂に閉じ込められ、護法になった。
これで獅駝嶺はなくなるのか。
なくならないどころか、なければならない。
考えてみよ。五百羅漢はどこから来たのか。三千揭諦はどこから来たのか。斗戦勝仏はどこから来たのか。
すべてそれぞれの獅駝嶺から収められたのだ。すべての羅漢には、かつてのある時代にある形で存在していた過去がある。すべての護法には収められる前の歴史がある。霊山は何もないところから建てられたのではない。霊山は何度も何度も獅駝嶺を収め続けることで建てられたのだ。
獅駝嶺は霊山の敵ではない。霊山の供給源だ。
かつての獅駝嶺はすべて収められた。収められたことで今日の霊山がある。今日の獅駝嶺も収められなければならない。収められることで霊山はより強くなる。霊山がより強くなることで、将来のより強い獅駝嶺を収めることができる。
将来の獅駝嶺は常に現れる。しかもますます強くなる。なぜなら世界は変わるからだ。新しい闇は新しい形で生まれてくる。霊山が強くならなければ、次のものを収めることができない。
これは永遠に止まらない循環だ。
なぜ如来は今回、過去仏、現在仏、未来仏を率いてきたのか。なぜ三世の仏が全員登場したのか。前例のない規模だ。
如来はすべての者に告げているのだ——獅駝嶺は無限だ。過去にあった。現在にある。未来にもある。これは一回限りの出来事ではない。構造だ。三世の仏が登場したということは、この事が過去・現在・未来を貫いていることを語っているのだ。
大鵬は収められた。次の大鵬がどこかで育ちつつある。
悟空は今日、斗戦勝仏として収められた。しかし悟空自身が獅駝嶺から出てきた者だ。大暴れした天宮が彼の獅駝嶺だった。五行山が彼が収められる過程だった。取経の道が彼が大鵬から護法になる道だった。
彼は如来が大鵬に定員枠を与えたことを問うた。しかし彼自身が定員枠をもらった大鵬だ。
霊山は獅駝嶺を必要とする。獅駝嶺がなければ新しい羅漢はいない。新しい羅漢がなければ霊山は停滞する。闇が光明に変えられなければ、光明は成長を止める。
これが真の物自体だ。「霊山があれば獅駝嶺がある」というほど単純ではない。霊山は無数の収められた獅駝嶺から構成されているのだ。霊山の一つ一つの煉瓦は、かつてある獅駝嶺の一部だった。
霊山を求めるのであれば、獅駝嶺を「受け入れる」だけでは足りない。獅駝嶺に慈悲を与えなければならない。それがなければ、お前が立つ場所はないのだから。
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