ある決定について理由を説明すると、相手は一つずつ反論する。そして、理由が十分に説得的でないから、その決定は認められないと言う。理解してもらうための説明が、いつの間にか許可申請へ変わっている。
説明するなら、質問や反応を受ける必要はある。とくに共同生活を変える選択なら、影響を受ける人には自分の利害や限界を話す権利がある。しかし、理由を理解することと、決定を許可する権限を持つことは同じではない。
共有資源、共に負う危険、すでに交わした約束は、一人で決められない。一方で、独りで過ごす時間、個人的な関心、仕事の意味づけ、通常の交友、共同負担を押しつけない生活の変更など、主に本人の方向に属することもある。相手は意見を言えるが、関係があるというだけで自動的に拒否権を得るわけではない。
難しいのは、ほとんどの重要な選択が周囲にも感情や変化をもたらすことだ。しかし、影響があることは、その選択を所有することではない。問うべきは「私に影響したか」だけでなく、何を具体的に担わせるのか、共同の約束をどう変えるのか、どこから先は単に気に入らないだけなのか、ということだ。
説明は、自分の判断を見える場所に置く。見落としを指摘されれば直せるし、相手がどんな影響を受けるかも知れる。それでも、相手を説得できなければ決める資格がない、とはならない。そうでなければ、話のうまい人ほど自由を持ち、言葉にするのが遅い人は、人生の許可を取り続けることになる。
「まだうまく説明できない。でも、私には大切だとわかる」としか言えないときもある。考えることを拒んでいるのではなく、理解がまだ途中だと認めている。その空白を、別の人の結論で埋めなければならない理由はない。
同時に、相手も自分の参加を決められる。「その選択を尊重するが、私は以前と同じかたちでは一緒にいられない」と言える。それは許可や禁止ではなく、自分の生活の限界を述べている。結果として関係が変わることはあっても、一方が他方を説得できないから、自分を放棄すべきだということにはならない。
自分を説明するとは、「結論だけを突きつけたくない。ここへ来た理由を知ってほしいし、あなたへの影響も聞きたい」と伝えることだ。「認められなければ、この決定は私のものではない」という意味ではない。説明は服従の手続きではなく、別々の人生を持つ二人が、互いの世界へ理由を届けるための行為である。