第二十五篇:終章――余項は消えない
帝制は1912年に終わった。だが、このシリーズは帝制の歴史をたどるものではない。鑿構周期律がどう働いてきたかを観察する歴史である。帝制が終わったからといって、鑿構周期律まで働くのをやめたわけではない。帝制は「構」の一つの形にすぎない。その形は終わっても、鑿と構を動かす基本的な力学は残っている。
帝制は1912年に終わった。だが、このシリーズは帝制の歴史をたどるものではない。鑿構周期律がどう働いてきたかを観察する歴史である。帝制が終わったからといって、鑿構周期律まで働くのをやめたわけではない。帝制は「構」の一つの形にすぎない。その形は終わっても、鑿と構を動かす基本的な力学は残っている。
だから、このシリーズは溥儀が退位した日に幕を下ろすのではない。もっと興味深い時点、1930年代半ば、日中戦争が全面化する直前で締めくくる。そのとき、三つの構の設計案が同じ時空に並び立ち、三人がそれぞれ一つの答えを体現していた。そして日本の軍事的圧力が、誰もに手札を見せるよう迫っていた。
その時点で歩みを止めよう。ひとたび全面戦争に入れば、道徳的な判断が構造の分析を圧倒し、冷静に眺めることのできなくなる手札もある。戦前は、三つの構を社会の組み立て方として論じられる最後の機会なのだ。そこを過ぎると、歴史の法廷ではすでに裁判が始まり、構造分析は道徳的な裁定に席を譲る。
私たちが求めているのは裁定ではない。理解である。二千年にわたる鑿と構の循環がここまで来たとき、余項はどのような姿で存在し、なぜ消えないのか。
一、民国初期――OSのない十六年
1912年から1928年まで。溥儀の退位から北伐の完了までの十六年は、中国政治史上、最も混乱し、同時に最も自由だった時代である。
混乱の理由は、OSがなかったことにある。バージョン3.5はアンインストールされたが、新しいOSのインストールは成功しなかった。袁世凱は強権的な大統領制を入れようとして失敗した。彼の死後、北洋系は複数の派閥に分裂した。帝制を再インストールしようとした試みは、さらに惨めな失敗だった。八十三日である。国会が議会制民主主義を入れようとした試みも失敗した。国会そのものが解散、再開、再解散を繰り返し、政治取引の道具に成り下がった。
軍閥の割拠が、事実上の日常になった。北洋系の安徽派、直隷派、奉天派が、代わる代わる北京政府を押さえた。南方の各省は、それぞれの地元の実力者が支配した。全国を一つに束ねる行政機構もなければ、統一された法律も軍事力もない。通貨さえ統一されていなかった。
構という角度から見れば、民国初期の軍閥政治は五代十国の縮小版だった。軍事的な強者の構が、短期間で次々に入れ替わる。ただし違いがある。五代の軍事的な強者は、少なくとも自らを天子と名乗り、バージョン3.5の正統性の物語を引き継いでいた。民国初期の軍閥には、その物語さえない。天子でもなければ、民衆に選ばれた大統領でもない。たまたま銃を持っている人たちにすぎなかった。彼らの正統性はゼロである。
正統性がゼロなら、安定性もゼロだ。どの軍閥の支配も、ひたすら暴力によって支えられていた。だが暴力は、蓄えを取り崩すストック型の資源である。使い切れば、そこでなくなる。正統性の物語がなければ、支配を支える力が継続して流れ込んでくることもない。だから軍閥政権の寿命は、五代の王朝よりさらに短い。五代では平均十年で交代していたものが、軍閥では数年、時には数か月で交代した。
しかし、混乱の裏面には自由があった。統一された権力の中心がないということは、思想を一元的に統制する者もいないということだ。民国初期は、中国近代で思想が最も活発に動いた時期の一つである。新文化運動、五四運動。そして自由主義、無政府主義、マルクス主義、三民主義、国家主義など、さまざまな主義が持ち込まれ、論争の火花を散らした。
これは、春秋戦国の百家争鳴と構造を同じくする。旧い構の崩壊→権力の空白→複数の設計案の競争→思想の爆発。春秋戦国の百家争鳴は、バージョン1.0が崩れたあとに起きた。民国初期の思想の爆発は、バージョン3.5が崩れたあとに起きた。二つの爆発を生んだ条件は同じだ。どの案も独占的な地位を持たない。だから、どの案にも議論される余地がある。
思想の自由が開かれる期間は、権力に空白がある期間と重なる。権力が統一されれば、思想はその統制下に取り込まれる。これが二千年来の法則だった。秦は統一後に焚書坑儒を行った。漢の武帝は思想を統一すると、儒学だけを尊ぶ体制を敷いた。政治の統一には、そのたびに思想の取り込みが伴ってきた。
民国初期の思想の自由は、どこかの開明的な指導者が授けてくれた恩恵ではない。権力の配置そのものから生まれたものだ。誰かが権力を統一すれば、この自由は終わる。残る問いは、誰が、どの構によって統一するのか。それだけだった。
二、三つのインストールパッケージ
1920年代半ばになると、民国初期の思想競争のなかから、三つの構の設計案が次第に頭角を現した。それぞれ、よりどころとする知識も、社会的な基盤も、余項の処理方法も違っていた。
第一の案、党国の構。
晩年の孫文は、1920年代初め、ソ連の援助を受けて国民党を改組した。レーニン主義政党のモデルに沿って組織を作り直し、黄埔軍官学校を通じて党の軍隊を築き、「軍政→訓政→憲政」という三段階論を打ち出した。
三段階論の理屈はこうだ。中国の民衆は、まだ民主政治のやり方を知らない。数千年に及ぶ帝制のもとでは、民主政治の訓練など受けてこなかった。だから、いきなり民主政治を始めることはできない。まず軍隊が天下を取る。これが軍政。次に党が民衆に市民としてのあり方を教える。これが訓政。民衆が学び終えたら、政治を民衆の手に返す。これが憲政である。
構の観点から見ると、この案の根底にある理屈には、ひどく見覚えのある影が差している。人より先に物事を理解している集団、つまり党が存在する。その集団は普通の人々よりも何がよいかをよく知っており、人々が「学び終える」までは、彼らに代わって決定する権利を持つ。そう仮定しているのだ。では、「学び終えた」という基準は誰が判定するのか。党である。いつ訓政から憲政へ移るのか。それも党が決める。
この構造は、設計者たちが認めようとする以上に、バージョン3.5の帝制の根底にある論理に、はるかに近い。帝制は言う。皇帝には天命がある。だから誰よりも決定する資格がある。党国は言う。党には先進的な理論がある。だから誰よりも決定する資格がある。天命は理論に、皇帝は党に置き換わった。だが、「他の人々よりも何が正しいかをよく知る集団がある」という核心の仮定は、変わっていない。
1925年に孫文が亡くなると、その遺産をめぐって国民党内部に分裂が生じた。対立の中心は、訓政をどのように進めるか、そして誰が訓政を指導するか、という問題だった。
第二の案、ソビエトの構。
1921年、中国共産党が成立した。その構の設計案は、十月革命後のソ連モデルから直接取り入れたものだった。プロレタリアート独裁、計画経済、そして民主集中制によるレーニン主義的な政党組織である。
この案には、党国の構との共通点がある。どちらも、社会を導く前衛、すなわち党が必要だと考える。違うのは、その前衛が誰を代表するかだ。党国の構における前衛は「民族全体」を代表する。階級を超えた民族全体の利益である。ソビエトの構における前衛は、「プロレタリアート」という特定の階級を代表する。
この違いは、単なる言葉遣いの違いではない。社会を動員する方法を、まるで違うものにした。
党国の構が動員の土台とするのは、民族への帰属意識である。労働者であろうと、地主であろうと、商人であろうと、あなたはまず中国人なのだ。党は、すべての中国人の利益を代表する。この動員の仕方は、上層や中産階級には魅力があった。自分の財産や地位は脅かされないからだ。だが下層の人々を引きつける力は限られていた。「私を代表すると言うけれど、具体的には何もくれないじゃないか」。
ソビエトの構が動員の土台とするのは、階級への帰属意識である。あなたは貧しい。貧しいのは、金持ちに搾取されたからだ。私たちは金持ちを倒し、その持ち物をあなたに分ける。この動員の仕方には、下層の人々を強烈に引きつける力があった。具体的なもの、土地が手に入るからだ。逆に上層の人々には、致命的な脅威だった。「私の財産を没収するつもりなのか」。
余項の管理という観点から見れば、二つの案が下層にたまった余項、すなわち農民の貧困と怒りを扱う方法は正反対だった。党国の構は、上層の利益に手をつけずに、下層の不満を和らげようとする。漸進的な改良、経済発展、教育水準の向上という方法だ。ソビエトの構は、上層の資源を直接再分配することで、下層の不満をなくそうとする。土地革命を行い、地主の土地を没収して農民に分ける。
前者の長所は、新たな大規模衝突を生まないことだ。短所は、遅すぎること。下層の人々は、そこまで待てない。後者の長所は、圧倒的な速さと動員力だ。土地を渡すと約束すれば、農民はすぐについてくる。短所は、新たな大規模衝突を生むこと。財産を没収された地主や中産階級が、今度は不倶戴天の敵になる。
第三の案、改良の構。
党国の構とソビエトの構。この二つの間にも、その外側にも、もう一つの道があった。大づかみに「改良の構」と呼べる道だ。中国は、漸進的で平和的な制度改良を進めるべきだという。ソビエトの構のように暴力革命を必要とはせず、党国の構のように一党による訓政を必要ともしない。議会政治、法の支配の整備、教育の普及、社会改良を通じ、一歩ずつ近代化へ進む。
この道の思想的な源泉は、主に英米の自由主義の伝統にあった。代表する人々は、国民党内の文人派、独立した知識人、一部の地方実力者などに分散していた。
改良の構の長所は、「人は目的である」という原則を、最も尊重することにある。壮大な目標のために自分の権利を犠牲にせよとは、誰にも求めない。一人ひとりが、自分の自由、財産、尊厳を保つ。社会を進歩させるのは、特定の前衛集団の指導ではない。自由な環境で個々人が自発的に生み出す創意と協力である。
改良の構の余項は、それが環境に要求する条件の厳しさだ。漸進的な改良には時間がかかる。数十年、時には百年以上を要する。差し迫った軍事的脅威のない、おおむね安定した対外環境が必要だ。法律が守られ、契約が履行される、最低限機能する国内秩序も必要だ。そして民主政治に参加できるだけの基礎的な教育を受けた市民層も必要になる。
1930年代の中国は、その条件を一つも満たしていなかった。外からは日本が一歩また一歩と迫ってくる。内には軍閥の残存勢力、匪賊、極貧の農民がいる。教育の普及率はきわめて低い。この状況で漸進的な改良を行うのは、嵐のなかで積み木を積むようなものだ。設計そのものは理論上、最善かもしれない。だが、一つずつゆっくり積んでいくことを、環境が許してくれない。
改良の構は、その価値が深いのと同じだけ、悲劇も深い。個人の権利と自由を尊重することを「正しさ」の基準とするなら、「正しさ」に最も近い案だったかもしれない。同時に、当時の環境には最も適応できない案でもあった。正しいことと、実行できること。その間に開く亀裂は、政治哲学における最も痛ましい亀裂である。
三、三つの構の緊張関係――1930年代の断面
1930年代半ばまでに、三つの構は、それぞれ異なる場所を占めていた。
党国の構を担ったのは、南京の国民政府だった。1928年に北伐が完了すると、国民党は形式上、全国を統一した。しかし、その統一には、後漢末期の「名目上の統一」に似たところがある。中央が支配する中核地域は、主に長江下流と沿海部に限られ、広くはない。多くの地域は依然として、地方の実力者が実際の支配権を握っていた。国民政府による法幣改革、道路建設、軍の再編は、中核地域では一定の成果を上げたが、その効果が届く範囲は限られていた。
ソビエトの構を担ったのは、中国共産党だった。1927年の国民党による共産党員の粛清と、その後の武装闘争を経て、共産党は農村に江西ソビエト区、鄂豫皖ソビエト区など、いくつかの根拠地を築き、土地革命を実践した。長征を経た1935~1936年、共産党は西北へ移った。根拠地の規模は大きくなかったが、組織は隅々まできわめて密に張り巡らされていた。共産党は、それまでにない、社会の末端にまで及ぶ動員力を示し、極度に困難な条件のもとでも、組織の運営と拡大を続けることができた。
改良の構には、統一された担い手がなかった。国民党内の穏健派、独立した知識人、一部の実業家、地方の実力者など、さまざまな勢力に散らばっていた。思想的な影響力はあっても、軍事力がない。道義的な正当性はあっても、組織的な基盤がない。
三つの構の緊張関係は、日中戦争全面化の前夜に頂点へ達した。日本の軍事的圧力が、すべての者に同じ問いを突きつけたからだ。この外からの脅威に、どう対処するのか。
党国の構の答えは、「まず内を安んじ、次に外敵を払う」だった。先に国内の競争相手である共産党を排除し、国内の力を一つにまとめ、それから日本に対処する。この戦略の理屈には、軍事的に一理ある。内側が分裂したままでは、対外戦争は戦えない。だが、その代償は時間だ。日本は、こちらの内側が片づくまで待ってくれない。
ソビエトの構の答えは、「内戦を停止し、一致して抗日へ」だった。道義のうえでは、きわめて強い訴えである。日本軍が玄関先まで攻めてきているというのに、まだ身内同士で戦っているのか。だが、言外の意味も明白だった。内戦の停止とは、「共産党討伐」の停止である。共産党に、息をつき、勢力を伸ばす余地を与えることになる。
改良の構の答えは、平和的な交渉によって時間を稼ぐことだった。外交で日本の侵略を遅らせ、その間に国内の近代化を加速する。この戦略には、一つの前提が要る。日本の膨張を外交手段で抑えられる、という前提だ。それが成り立たないことは、まもなく明らかになった。
日本の軍事的圧力はプリズムのように働き、三つの構が内に持つ特徴を、くっきりと浮かび上がらせた。
党国の構の最大の関心は、権力だった。誰が中国を支配するのか。国内の競争相手を、国外の侵略者より差し迫った脅威と見なした。そこに、根底の論理が現れている。国家の利益は党の利益に従う。あるいは、党は自分たちの利益こそ国家の利益だと考えている。
ソビエトの構の最大の関心は、生存だった。包囲討伐のもとで、どう生き延びるか。「一致抗日」というスローガンは、民族の大義と自らの生存、その両方に役立った。そこに、根底の論理が現れている。あらゆる言説は、民族主義の言説も含め、核心にある目的のために用いることができる。
改良の構の最大の関心は、秩序だった。今ある社会構造を壊さずに、どう危機に対処するか。そこに、根底の論理が現れている。変革よりも秩序が重要なのだ。だが、変革が避けられなくなったとき、秩序への執着は、現実から目をそらすことに変わる。
三つの構。三つの中心的な関心。三つの余項。どれ一つとして完璧ではない。どれ一つとして、代償なしでは済まない。
四、ここで歩みを止める
このシリーズは、ここで歩みを止める。物語が終わったからではない。終わりには、まだほど遠い。だが、もう一歩先へ進めば、全面戦争とその後の歴史に入る。構造を分析する余地は、道徳的な裁定に押しつぶされ、ほとんどなくなってしまう。
日中戦争が全面化する直前、この時点で止まるのは、そこがまさに格好の観測点だからだ。二千年にわたる鑿と構の循環を貫く主題のすべてが、一つの断面のうえに、同時に姿を現している。
バージョン3.5の根底にある論理は、まだ生きている。
帝制という形式は終わった。だが、権力を集中させる論理は終わらなかった。三つの設計案のうち、党国の構とソビエトの構の二つには、共通する核心の仮定がある。人より先に物事を理解している集団が存在し、他の人々に代わって決定する権利を持つ、という仮定だ。これは、帝制の「天子が天に代わって民を治める」という考えと、構造上、本質的な違いがない。名称は天子から党へ変わった。正当化の論法は、天命論から唯物史観や三民主義へ変わった。だが、ある者は他の者よりも権力を握る資格があるという根底の論理は、変わっていない。
バージョン3.5の形式はアンインストールされた。バージョン3.5の論理は余項として残り、新しい服を着て動き続けている。
余項保存則は、なお働いている。
三つの構は、それぞれいくつかの余項を消すと同時に、新たな余項を生み出した。党国の構は、北伐による統一で軍閥割拠という余項を消したが、一党独裁という余項を生んだ。ソビエトの構は、土地革命で土地の集中という余項を消したが、階級闘争の拡大という余項を生んだ。改良の構は大きな余項を生まない。だが、すでにある余項を消す力もない。余項を消すには力が要る。そして改良の構にいちばん欠けているのが、その力なのだ。
すべての余項を消せる構は、一つもない。旧い余項を消すどの方法も、新たな余項を生み出している。総量は保存され、形が変わる。この法則は、堯・舜・禹からここに至るまで、一日たりとも止まることなく働いてきた。
「人は目的である」という相転移は、なお加速している。
二千年前、孟子は「民を貴しと為す」と言った。千年前、その言葉は儒者が皇帝を批判するための修辞の道具だった。百年前には、帝制を倒すための思想的な武器になった。1930年代になると、「人は目的である」は、もはや中国だけの命題ではない。世界規模の相転移である。アメリカの独立宣言には「すべての人は生まれながらに平等」と記されている。フランス革命は「自由・平等・友愛」を叫んだ。ソ連は全人類の解放を掲げた。のちには日本の軍国主義でさえ、「大東亜共栄」という言葉で自分を包み飾る必要があった。もはや「お前を征服する」と公然と言うことさえできない。「お前を解放する」と言わねばならないのだ。
人を手段にしようとする試みは、何度も行われてきた。秦は人を手段とし、十五年もった。モンゴルの元は人を手段とし、九十七年もった。袁世凱は帝制を復活させ、人々を再び臣民に戻そうとして、八十三日しかもたなかった。「人は目的である」という相転移が加速するなかで、人をかつての位置へ押し戻すことは難しくなっていく。近代に至ると、帝制復活が根づく余地は著しく狭まっていた。
ここで、このシリーズ全体を陰で支えてきた背骨が、最後にもう一度姿を現す。鑿はやまず、構は閉じきらない。その根本の理由は、鑿の技術が未熟だからでも、構の設計に欠陥があるからでもない。人は目的だからである。
人は目的である。それは、どんな構も、人をある場所へ永久に固定することはできない、という意味だ。人は発展する。求めるものが変わり、認識が進み、自分の尊厳に対する要求も育っていく。どれほど精密に設計された構でも、それは今この時点の人に合わせた設計にすぎない。人は変わるのに構は変わらなければ、亀裂が生じる。その亀裂が、余項である。
余項は消えない。人が発展をやめないからだ。
構は閉じきらない。余項が消えないからだ。
鑿はやまない。構が閉じきらないからだ。
これは無限の循環である。だが、悲観すべき循環ではない。人間の尊厳をめぐる循環なのだ。鑿が振るわれるたびに、「人はこんなふうに扱われてはならない」と、もう一度確認される。構が破綻するたびに、「いかなる制度も、人を永久に手段として扱い続けることはできない」と、もう一度証明される。
二千年にわたる帝王たちの歩みは、たどり終えた。鑿構周期律は、まだ終わっていない。終わることはない。人が発展を続けるかぎり、それは終わらない。
それは惜しむべきことではない。希望である。
終わらせることのできる循環とは、人が発展をやめたということだ。よりよい暮らしを、より大きな自由を、より深い尊厳を求めなくなったということだ。それこそが、本当の悲劇である。
鑿はやまず、構は閉じきらず、余項は消えない。
人は目的だからである。
(全シリーズ完)