Non Dubito Essays in the Self-as-an-End Tradition
鑿構周期律 · 中華帝王シリーズ — 第24篇、全25篇

第二十四篇:清後期——OSが未知の世界に出会うとき

1840年、アヘン戦争。

Han Qin (秦汉)

1840年、アヘン戦争。

鑿構周期律の観点から見れば、アヘン戦争の意味は、軍事的敗北そのものにはない。中国史に敗戦などいくらでもある。靖康の変で被った軍事的損失は、アヘン戦争よりはるかに大きかった。アヘン戦争が本当に意味したのは、バージョン3.5のOSが、その知の枠組みのなかに対応するものを持たない課題に、初めて出会ったということだ。

それまでの二千年間、3.5が直面してきた課題は、どれも「同じ種類の問題の別バージョン」だった。武将の反乱、農民蜂起、異民族の侵入、土地の集中、官僚の腐敗。システムには、それらを処理する経験も、道具も、概念の枠組みもあった。何が起きているのかがわかる。似た問題を過去にどう処理したかもわかる。先例を参照して対処できた。

工業文明は、その枠の外にあった。持ち込まれたのは、より強大な軍事力だけではない。それは表面に見える姿にすぎなかった。工業生産、資本主義経済、国民国家体制、国際法、代議政治、近代科学という、まったく新しい文明のパラダイム一式がやってきたのだ。そのどれ一つを取っても、3.5の理解の範囲を超えていた。

正体のわからない相手に出会ったとき、最初に何をするだろう。知っている枠組みに当てはめて説明しようとする。こうして清は、およそ七十年、1840年から1911年までを費やし、少しずつ思い知ることになった。知っている枠組みでは、もう足りない。この発見は三つの層をたどった。器物から制度へ、制度から文化へ。一層深く進むたびに、痛みは増していった。自分たちは何者なのかという認識に、それだけ近づいていくからだ。

一、太平天国——3.5内部の余項と外からの衝撃が同時に噴き出す

清が外からの挑戦にどう応じたかを論じる前に、国内で何が起きていたかを見ておこう。

1851年、洪秀全は広西の金田で蜂起し、太平天国を樹立した。太平天国の運動は1851年から1864年まで十四年にわたり、中国の大半を巻き込んだ。死者は数千万人に達した可能性がある。人類史上、最も凄惨な内戦の一つである。

鑿と構の観点から見ると、太平天国は実に興味深い。これまでに論じてきた複数の主題が、そこに同時に現れているからだ。

宗教という形を取った、社会の底辺からの反抗。

洪秀全の太平天国は、拝上帝会を組織の土台にしていた。キリスト教の要素と中国の民間宗教を混ぜ合わせた信仰体系である。後漢の太平道、元末の白蓮教、清初の白蓮教と、型は同じだ。世俗の通路を塞がれた底辺の余項が、宗教の形を取って噴き出す。

ただし太平天国には、新しい要素があった。その宗教的資源の一部が外部、つまりキリスト教に由来していたのである。もっとも、それは洪秀全によって極端に歪められたキリスト教だった。3.5は初めて、外来のイデオロギーを使って抵抗を組織する国内勢力に直面した。儒学による教化、科挙による取り込み、天命をめぐる物語。3.5が備えていた思想統制の道具は、儒学の枠内にある異論には効く。しかし「自分は神の子だ」と言い張る人間には効かない。そもそも、ものを語る言葉の体系が違うのだ。

鑿も構もある。だが、構が間違っている。

李自成とは違い、太平天国は鑿だけを担う組織ではなかった。一揃いの制度設計を持っていた。天朝田畝制度は土地の均等分配、男女平等、財産の公有を掲げた。政治制度は、天王のもとに東王・西王・南王・北王・翼王を置く分封体制だった。社会制度には、男女を別々の営に分けること、アヘンの禁止、纏足の禁止があった。

太平天国が設計した構には、強烈なユートピア色があった。天朝田畝制度は、紙の上では3.5のどの型よりも「進歩的」だった。徹底した土地公有制と男女平等を約束していたからだ。だが、その設計は現実から完全に浮いていた。本気で実施されたことすらない。太平天国の支配地域、主に長江の中・下流域で行われていた実際の統治は、紙に書かれた制度とはほとんど関係がなかった。指導者自身、自分たちの制度を守っていない。洪秀全の後宮は、清の皇帝の後宮をはるかにしのぐ規模だった。

これもまた、「方向は正しいかもしれないが、実行はまるで駄目」という事例である。王莽の復古的な改革と、同じ構造的欠陥を抱えていた。構を設計するときの出発点が現実ではない。まず問題を診断し、そこから解決策を考えるのではなく、理想から出発する。先に完璧な青写真を描き、現実をそのなかに押し込むのだ。

曽国藩と湘軍——地方の団練が制度になる。

清の正規軍である八旗と緑営には、太平天国を鎮圧する力がなかった。白蓮教の乱で露呈していた軍事的衰退が、太平天国を前にして、もはや隠しようのない姿を現した。朝廷は、地方の士紳が自前の武装組織をつくり、太平軍に対抗することを認めざるをえなくなった。

その地方武装のなかで最も成功したのが、曽国藩の湘軍だった。湘軍は国家の軍隊ではない。曽国藩が個人で兵を募り、訓練し、指揮する私兵だった。軍資金も曽国藩自身が調達した。一部は朝廷からの支出だったが、多くは地方での献金・捐納と、軍資金を賄うために設けられた地方商業税である釐金に依存していた。兵士の忠誠が向かう先は、朝廷ではなく曽国藩個人だった。

構の観点から見れば、湘軍の登場は、3.5というOSに根本的な変化が生じたことを意味する。中央による暴力の独占が破られたのだ。

軍事力を中央が独占することは、3.5の核心をなす設計の一つだった。秦の編戸斉民から、宋の杯酒釈兵権、明の衛所制、清の八旗と緑営に至るまで、各時代の制度は、中央、つまり皇帝だけが正当な暴力の保有者であるように組み立てられてきた。

太平天国との戦争のあと、その独占は事実上終わった。湘軍、李鴻章の淮軍、左宗棠の楚軍。これらの地方軍をつくった人々は、独自の軍事力を持つ地方実力者になった。名目上は朝廷に従っていても、実際には朝廷の統制が届かない武力を手にしていた。

これは、後漢末に黄巾の乱を経て地方軍事勢力が割拠した過程や、唐末に黄巣の乱を経て軍閥化が進んだ過程と、構造がまったく同じである。歴史はまた、あの型を繰り返した。中央の軍事力が足りない→危機に対処するため地方の自衛武装を認める→地方武装が肥大化する→中央の権威がさらに弱まる。

しかし今回は、一つ新しい点があった。地方実力者たちは軍閥であると同時に、改革者でもあった。曽国藩、李鴻章、左宗棠、張之洞。彼らは戦いながら、一つの問いを考えていた。なぜ自分たちは西洋人に勝てないのか。この問いから、洋務運動が生まれた。

二、三つの層で起きた発見

清が3.5の限界を知るまでには、およそ七十年かかった。その発見の過程は三つの層に分かれ、一層進むごとに理解は深まり、痛みも増していった。

第一の層、器物——「われわれの武器は、相手のものに劣っている」。

アヘン戦争と第二次アヘン戦争、すなわちアロー戦争(1856〜1860年)から直接得られた教訓は、西洋の銃砲は自分たちのものより強力だ、ということだった。解決策は簡単に見えた。西洋の銃や大砲を買い、兵器工場を建て、軍艦をつくればいい。

これが、概ね1861年から1895年にかけて行われた洋務運動の出発点だった。李鴻章、左宗棠、張之洞らは各地に、江南製造局・金陵機器局・漢陽兵工廠などの兵器工場、福州船政局・江南造船所などの造船施設、そして軍学校を設立した。アジア最大の近代海軍、北洋艦隊も、この運動の産物だった。

洋務運動の標語は「中学を体とし、西学を用となす」。中国の学問、つまり儒学、帝制、伝統的な価値観を根本に据え、西洋の技術、つまり銃砲、汽船、電信は道具として使う。西洋人の道具を使うことはできる。だからといって、自分たちの体制や文化を変える必要はない。

構の観点で言えば、「中体西用」とは3.5の枠組みをそのままに、外部の部品を取り込んで、一部の機能を強化することだった。古いパソコンに新しいグラフィックボードを挿すようなものだ。ハードウェアは更新された。だがOSは変わっていない。

それで、うまくいくのか。

1895年、日清戦争が答えを出した。いかない。

北洋艦隊は日本海軍によって壊滅させられた。清は主権を損なう屈辱的な下関条約に調印した。三十年に及ぶ洋務運動の軍事的成果が、一度の海戦でまるごとゼロになった。

日清戦争の衝撃は、アヘン戦争よりはるかに大きかった。アヘン戦争の相手はイギリスだった。遠く、よく知らない、「蛮夷」に分類して済ませられる国だった。日清戦争の相手は日本である。文化的には同じ源流に連なり、地理的には目と鼻の先にあり、ほんの数十年前まで中国が見下していた隣国だ。その日本が、1868年に始まる明治維新によって、二十数年のうちに封建国家から工業化した近代国家へと変わった。日本にできたことが、なぜ中国にはできなかったのか。

この問いは、少し掘り下げる価値がある。日本が選んだ道は、鑿と構を考えるうえで格好の比較対象になるからだ。それだけではない。その選択がもたらした結果は、帝制終焉後の中国で、あらゆる政治勢力が向き合う外圧を直接形づくることになる。

日本が直面した課題は、中国と同じだった。東アジアの農業社会に、工業文明が衝突してきたのである。だが、それに対する応じ方は、中国とはまったく違った。

中国の対応は、段階的で、一層ずつ進むものだった。まず器物を学ぶ洋務運動。それでは足りず、制度を学ぶ戊戌の変法。それでも足りず、文明の型そのものを学ぼうとする辛亥革命。前の層で失敗するたびに、やむなくもう一層深く潜っていった。七十年かけて三歩進み、その一歩一歩が、前の一歩より痛かった。

日本は一挙に、全面的に応じた。明治維新は、器物・制度・文化の三つの層でほぼ同時に進んだ。制度では廃藩置県、軍事では徴兵令、経済では地租改正、政治では憲法制定と議会開設、知の面では欧米を視察する岩倉使節団、文化では文明開化。日本は玉ねぎを一枚ずつ剥かなかった。丸ごと呑み込んだのだ。

なぜ、日本にはできて、中国にはできなかったのか。

日本人のほうが賢かったからでも、開明的だったからでもない。両国では、構を成り立たせている土台が違っていたからだ。

中国は、二千年にわたって動いてきた統一帝国だった。3.5のOSは深く根を張り、社会の隅々まで浸透していた。それを変えるには、二千年分の制度の慣性を乗り越えなければならない。しかも、中国はあまりに大きかった。どんな改革も、広大な国土、膨大な人口、きわめて複雑な利害構造を持つ社会全体に行き渡らせる必要がある。抵抗は幾何級数的に膨らむ。

日本は封建国家だった。幕府と諸藩に権力が分かれていた。天皇には名分はあっても実権がなく、東周の周天子に似ていた。現実の権力は数百人の藩主に分散していた。この構造はいかにも遅れて見える。中国の中央集権よりも「原始的」だ。しかし外からの衝撃を受けたとき、それがかえって強みになった。分権構造なら、地域ごとに試せるからだ。薩摩、長州、土佐、肥前といった藩は、全国一斉の行動を待たずに改革を先行できた。成功した藩の経験は、ほかの藩が学べる。失敗しても一藩の失敗で済み、国全体を道連れにはしない。

また、日本の封建制のもとでは、天皇の権威は名目的なものだった。東周の天子と同じく、正統性はあっても実権はなかった。明治維新の「王政復古」は天皇に実権を返したが、それは形式上は旧制度の復活でありながら、実質的には天皇の正統性を使って、まったく新しい改革を進める営みだった。天皇は改革の障害ではなく、改革の道具になった。その権威は伝統に由来し、掲げる課題は近代的だったからである。

中国には、この条件がなかった。中国の皇帝には正統性も実権もあった。そして実権を動かす仕組みこそが、3.5の核心だった。皇帝を使って皇帝制度を覆すことはできない。改革を進める道具そのものが、改革によって変えるべき対象なのだ。

ただし日本の成功には、深いところで支払う代償があった。鑿と構の観点から見ると、この代償は日清戦争の時点ではまだ見えない。だが、最終篇で扱う時期になると、その全貌が露わになる。

明治維新がつくり上げた構は、「国家主義の構」と呼べる。国全体を近代的な動員機械につくり替えたのだ。「富国強兵」の四文字が、すべてを語っている。国を富ませることは手段であり、軍を強くすることが目的だった。個人は国家に奉仕し、国家は軍事力に奉仕する。天皇が人民のために存在するのではない。人民が天皇のために、実際には国家のために存在する。

その構造は、秦と驚くほどよく似ている。全面的な動員、戦争能力という単一の目標、集団への個人の服従。違いは統制の方法にあった。秦は法家によるハードな統制を使った。日本は、神道と武士道を近代的につくり替えた天皇崇拝によるソフトな統制に、近代国家機構のハードな統制を組み合わせた。硬軟を併用するぶん、効率はさらに高かった。

秦の構は、戦国の勝ち抜き戦を制した。対戦相手がみな同じゲームをしていて、誰も非対称な戦略を見つけられなかったからだ。日本の構も、東アジアの近代化競争を制した。日清戦争で中国を、日露戦争でロシアを破った。

だが、戦国篇の教訓はここにも当てはまる。勝ち残ったことは、正しさの証明にはならない。秦の一か八かの構が通用する時代には、限られた窓があった。その窓が閉じると、構はもろく折れた。日本の国家主義の構にも、同じように時代の窓があった。列強が競い合う環境では、総動員体制は短期的に有利だ。しかし、システムを養うために拡張を続けねばならず、内部の異論を受け入れられず、一度軍事的に敗れれば全体が崩壊する。そのもろさは、構造のうえで秦とまったく同じだった。

そのもろさのツケが、一括で取り立てられたのが1945年だった。しかし二十世紀前半の日本は、まだその窓が開いている時間のなかにいた。国家主義の構は、破竹の勢いに見えた。その膨張圧力は、帝制終焉後の中国において、あらゆる政治勢力が対応せざるをえない外部環境になった。帝制後の構の競争は、真空のなかで行われたのではない。日本の軍事的圧力という、巨大な外的制約のもとで行われた。この制約が、各勢力に残された選択の幅を深く規定した。

この問いへの答えが、思考を第二の層へと押し進めた。

第二の層、制度——「われわれの体制は、相手のものに劣っている」。

日清戦争のあと、康有為、梁啓超、譚嗣同、厳復をはじめ、多くの中国の知識人が、洋務運動の届かなかった結論に至った。西洋の器物だけを学んでも足りない。制度を学ばなければならない。

日本が中国に勝てたのは、銃や大砲の質が上だったからではない。北洋艦隊は、装備の面では日本に引けを取っていなかった。日本には、より効率のよい国家の組織体系があった。立憲政治、近代的な官僚制度、全国民への教育、近代的な経済制度。それらがあったから、資源をより有効に動員し、生産を組織し、軍隊を指揮できたのである。

1898年、光緒帝は康有為らに後押しされ、戊戌の変法を始めた。およそ百日の間に、科挙の改革、新式学校の開設、余剰官吏の削減など、一連の制度改革を進めようとした。改革派の構想には、議会の設置を求める主張も含まれていた。

戊戌の変法は、わずか百三日で終わった。西太后が政変を起こして打ち切ったのである。譚嗣同ら六人は処刑され、光緒帝は幽閉された。

変法が失敗した直接の原因は、権力闘争だった。西太后は権力を手放したくなかった。だが、より深い原因は構造にあった。制度改革は3.5の核心、集権体制そのものに手をかけたのだ。議会を設けるなら、皇帝は民選の代表たちと意思決定権を分け合うことになる。科挙を改めるとは、およそ千三百年続いてきた官僚育成の仕組みを変えることだ。余剰官吏を削るとは、無数の人間の飯の種を奪うことだ。

どの改革にも、強力な反対勢力がいた。そして彼らには共通の後ろ盾があった。西太后である。彼女は、旧体制全体の既得権益集団を代表していた。

ここでまた、明代の張居正の改革が陥った難問に戻ってくる。構の内部で改革するには、権力を集中させている者の支持がいる。だが、その当人が、改革によって動かさねばならない対象の一部でもある。自分の権力を弱める改革を、その人自身が支持してくれると期待するわけにはいかない。

戊戌の変法の失敗が証明したのは、3.5の枠内では、制度の層に踏み込む改革を平和的に進めることは、ほとんど不可能だということだった。改革の一歩一歩に、現在の権力保持者の同意が必要になる。ところが改革の目的は、まさに現在の権力配分を変えることなのだ。

第三の層、言説——「われわれの文明の型そのものを変えなければならない」。

戊戌の変法が失敗すると、一部の知識人は、さらに急進的な結論へと進んだ。変えるべきは、器物や制度だけではない。帝制、儒学、家族を軸とする社会、天朝として世界の中心にいるという意識。文明の型全体を、根こそぎ否定し、取り替えなければならない。

孫文(孫中山)の革命論は、この発想の政治的な表現だった。改良するのではなく、倒す。3.5に継ぎ当てするのは、もうやめよう。まったく新しいOSに入れ替えよう。共和制、民主主義、立憲政治。これらは3.5用の修正パッチではない。まったく別の構である。

1905年、科挙が廃止された。3.5の核心をなす部品の一つが、正式に取り外されたのである。科挙は隋から清末まで千三百年にわたって動き続けた、帝制中国で最も長命な制度だった。その廃止は、3.5の社会的基盤である科挙官僚層から、足元の土台を抜き取ることを意味した。

科挙廃止の影響は、きわめて深く広がった。それまで知識人には、はっきりした上昇の道があった。学問を修め、試験を受け、官僚になる。その道が、社会の最も優秀な頭脳を、体制を支える方向へ導いていた。科挙がなくなると、その道が断たれた。新式学校が送り出した知識人には、科挙という出口がない。旧体制は彼らを求めず、新体制はまだできていない。彼らは社会で最も危険な集団になった。教育があり、理想があり、能力もある。なのに、行き場がない。

行き場を失った知識人は、革命にとって最高の燃料となる。辛亥革命の組織者や参加者には、この集団の出身者が大勢いた。留学生、新式学校の卒業生、科挙廃止によって従来の進路を失った学問の徒である。

1911年、辛亥革命。1912年、溥儀退位。帝制が終わった。

器物、制度、言説という三つの層での発見は、3.5というOSの三つの層に対応していた。器物を学ぶ洋務運動は、システムそのものに触れない。だから最も容易だが、効果も最も限られる。制度を変える戊戌の変法は、システムの構造に触れる。だから抵抗は最大で、平和的な枠内でやり遂げることは、ほぼ不可能になる。言説の層で起きる辛亥革命は、システム全体を否定する。だから最も徹底しているが、最も制御が利かない。

どの層も、その前の層が失敗して初めて、そこまで押し進められた。もし洋務運動が成功し、日清戦争に負けていなければ、誰も制度を疑わなかったかもしれない。もし戊戌の変法が成功し、西太后が政変を起こさなければ、誰も革命まで進まなかったかもしれない。次の層は、より深いから優れているのではない。前の層では足りず、深く進むほかなかったのだ。

三、辛亥革命——3.5は形式として終わった

1911年10月10日、武昌蜂起。その後わずか数週間で、南方の各省が次々に独立を宣言した。1912年1月1日、中華民国成立。2月12日、溥儀の退位詔書が公布された。

始皇帝が皇帝を称した紀元前221年から1912年まで、中国の帝制は二千百三十二年にわたって存在した。

辛亥革命は、軍事面でも組織面でも、その過程を「壮烈」とは言いにくい。武昌蜂起には、偶然の要素すらあった。計画が漏れ、予定を繰り上げて動かざるをえなくなったのだ。各省の「独立」の多くも、地方実力者が勝ちそうな側に賭けた行動であり、本当の意味での革命行動ではなかった。南北の和平交渉が行き着いた先は妥協だった。袁世凱が清の皇帝を退位に追い込み、孫文が大総統の座を袁世凱に譲った。

しかし、辛亥革命の歴史的意味は、その実際の過程をはるかに超えている。それは帝制という一つの形式を終わらせた。それ以後、帝制を復活させようとする者は誰であれ、正統性をめぐる根本的な難問に直面する。歴史がすでに否定したものを、なぜ戻すべきなのか。どう説明するのか。

1915〜1916年の袁世凱による帝制復活の試みが、それを証明した。八十三日。1917年の張勲による復辟は、さらに短く、十二日だった。形式を取り戻そうとする揺り戻しは、そのたびに短命になった。相転移は、形式の層ではすでに完了していた。形だけを元に戻すことすら、もうできなかった。

だが、形式が終わることと、論理が終わることは同じではない。前篇でも触れたとおり、3.5の帝制という形式は1912年に終わった。しかし、その根底にある論理、権力の集中、一点に集約された意思決定、上から下への統制、異論の抑圧も、同時に終わったのだろうか。

辛亥革命後の十数年間、この問いはきわめて切実になった。帝制を倒したあと、何を代わりに据えればよいのか、誰にもわからなかったからだ。

民国は成立した。だが「民国」は、まだ空の器だった。なかにどんな制度を入れるのか。共和制か。どの共和制か。アメリカ式の大統領制か。フランス式の議院内閣制か。それとも、別の何かなのか。

1917年、辛亥革命からわずか六年後、思いもよらない答えが北から届いた。

ロシアの十月革命である。ボリシェヴィキは、帝政崩壊後の臨時政府を倒し、ソヴィエト政権を樹立した。この出来事が中国に与えた衝撃は、日清戦争に劣らなかった。ただし、衝撃が走った次元はまったく違っていた。

日清戦争が突きつけたのは、「われわれの器物と制度は、相手のものに劣っている」という問題だった。十月革命が揺さぶったのは、「西洋の道だけが、唯一の道なのか」という問いだった。

それまで中国の知識人が論じてきた改革案には、共通の暗黙の前提があった。洋務運動はイギリスの器物を学び、戊戌の変法は日本の制度を学び、辛亥革命はアメリカの共和制を学ぶ。近代化とは西洋化であり、強くなりたければ西洋のようになるしかない。違いは、どこまで学ぶかだけだった。器物だけなら最小限。制度までなら、もう少し多く。文明の型全体なら、すべてを学ぶ。

十月革命は、まったく新しい可能性を示した。西洋の道を歩まなくてもいい。むしろ、西洋に対抗する道を歩める。資本主義も議会制民主主義も採用せず、プロレタリア独裁、計画経済、レーニン主義政党を組み合わせた、まったく新しい構で社会を組織する。しかも、この道は西洋より進んでいると自ら主張した。西洋の代用品ではない。西洋を乗り越えるものだ、と。

構の観点から見れば、十月革命が運んできたのは、新しい構の案だけではなかった。構を組み立てる論理そのものが新しかった。それまでに論じてきた構は、禅譲の構から帝制の構、共和制の構に至るまで、いずれも同じ文明的伝統の内部で重ねられた更新だった。十月革命がもたらしたマルクス・レーニン主義の構は、まったく異なる知の伝統、ドイツ哲学、イギリス政治経済学、ロシアの革命実践から生まれた。その概念の枠組みである階級、剰余価値、史的唯物論、プロレタリア独裁には、中国の知の体系のなかに対応するものが何もなかった。

つまり、帝制終焉後の構の競争は、単なる「3.5の異なるアップグレード案どうしの競争」ではない。「根本から異なる文明の論理どうしの競争」だった。西洋資本主義の道があり、ソヴィエト・ロシアの社会主義の道がある。そして中国自身の二千年にわたる帝制の伝統も、形式こそ廃されていても、底層の論理としてそこに残っていた。三つの論理が、互いに衝突し、浸透し合い、互いをつくり変えていく。

しかも、ロシアが中国に及ぼした影響は、イデオロギーだけではない。地政学的には、ロシア、そしてソ連は、清代以来、中国の北方で最大の領土的脅威だった。十七世紀のネルチンスク条約から、十九世紀のアイグン条約、北京条約に至るまで、ロシアは中国の北部と北西部の広大な領土を蚕食してきた。清が受けていた外圧は、一方向ではなかった。海から来る西洋列強だけではない。海には英・仏・日、陸にはロシアという、二方向からの圧力だった。

十月革命後、この北の隣国は、まるで別の顔に変わった。帝政ロシアの帝国主義の顔が、ソ連の「国際主義」の顔になった。ソ連は、帝政ロシアが中国で持っていた特権を放棄すると宣言した。実際には多くを残したのだが。同時に、革命理論と組織づくりの経験を輸出し、中国の革命勢力がレーニン主義型の政党組織をつくるのを助けた。地政学的な圧力は、領土の蚕食からイデオロギーの浸透へと姿を変えた。後者の影響は、前者よりも深く長く及んだかもしれない。

3.5はアンインストールされた。だが、新しいOSはまだ入っていない。選べるインストールパッケージは、少なくとも三つあった。米英型の西洋資本主義的民主政治、レーニン型のソヴィエト・ロシアの社会主義、そして、中国の伝統と近代化の必要とを結びつけようとする、まだ形の定まらない国産の案である。この「OS不在期」は1912年に始まり、最終篇で扱う時期にも、まだ終わっていない。

鑿と構の観点から見れば、辛亥革命は成功した鑿だった。古い構を取り壊したのだから。だが、古い構を壊したことは、新しい構ができたことを意味しない。鑿と構は、組になっていなければならない。それは明末清初に三つの勢力が衝突したときの教訓だった。辛亥革命後の中国が直面したのも、この組み合わせの問題である。帝制を倒す革命勢力という鑿は手に入った。しかし、社会に受け入れられ、実際に機能する新しい制度という構は、まだない。

この先は、OSのない廃墟の上で、いくつもの構の案が競い合う物語になる。

四、清が周期律に残した最後の教訓

清の二百六十八年が鑿構周期律のなかで占める位置は、こうまとめられる。3.5というOSが、最後に一通り動いた時代であり、そのOSが歴史上の有効期限を迎えた時代でもあった。

第一に、選択的な接ぎ木は、異民族による統治の最適解である。選べる手札の範囲内では。

北魏の全面的な漢化は、六鎮の乱という代償を払った。モンゴルの元は融合を拒み、九十七年をどうにかやり過ごした末に崩壊した。それらと比べれば、清の選択的な接ぎ木が最も長く持ちこたえた。ほぼ二百年、実効的に機能したのだ。しかし、最適解であることは、代償がないことではない。接ぎ木の継ぎ目はつねに残り、清末には内外の圧力によって裂けていった。

第二に、調整の限界を決めるのは、枠組みそのものだ。

雍正帝による精密な調整は、帝制の枠内で到達できる最高水準に達していた。だが、調整では枠組みを越えられない。集権、皇帝制度、科挙を通じた文官体系という枠組みの核心は、調整を可能にする前提であると同時に、その限界でもある。工業文明に直面したときのように、枠組み自体が問題になれば、調整とは、タイタニック号の甲板で椅子を並べ替えることになってしまう。

第三に、OSには有効期限がある。その期限を決めるのは、システムの質ではなく、環境が変わる速さだ。

3.5の出来はよかった。二千年動いたことが、その何よりの証拠である。だが、環境が変わった。産業革命によって、世界の変化の速度は一桁上がった。3.5の適応速度では、もう追いつけない。それは3.5のせいではない。世紀単位で変わる農業文明に合わせて設計されたのであって、十年単位で変わる工業文明に合わせて設計されたわけではないのだから。

第四に、器物・制度・言説という三つの層での発見は、文明のパラダイム転換に直面したあらゆる社会がたどる過程である。

隔たりを理解するとき、人はつねに最も表面の層から始め、少しずつ深く進んでいく。まず、武器の差が見える。武器は目に見えるので、理解しやすい。次に、制度の差が見える。制度は抽象的だから、理解は難しくなる。最後に、文明の型の差が見える。これは、自分たちは何者かを定義し直すことに関わるため、最も理解しがたい。一層深く発見するたびに、痛みは増す。自己認識の核心に、それだけ近づくからだ。銃を取り替えても痛くない。制度を変えると、痛み始める。「自分は何者か」という理解を変える。それが、いちばん深い痛みになる。

第五に、そして最も深いところで、帝制が終わったのは、ある皇帝がひどすぎたからでも、ある制度設計に欠陥があったからでもない。「人は目的である」という相転移が加速していたからだ。

帝制の根底にある前提は、ある一人の人間、つまり皇帝に、ほかのすべての人間の運命を決める権利がある、というものだ。これは「人は目的である」と正面から矛盾する。一人ひとりが目的であるなら、誰にも、ほかの人間を手段として使う権利はない。皇帝も例外ではない。

この矛盾は、帝制の二千年間を通じて存在し続けた。ただ、儒家の仁政をめぐる言説、科挙による上昇の道、天人感応によって権力を制約する仕組みなど、さまざまな緩衝機構によって管理されていた。緩衝機構は矛盾のとげを鈍らせる。だが、矛盾そのものをなくしはしない。

工業文明の到来は、この矛盾が尖鋭化する速度を上げた。経済の面では、人は朝廷ではなく市場を通じて資源を手にできるようになった。知の面では、印刷技術と新式教育によって、知識が少数者の独占物ではなくなった。こうして工業文明は人を解放し、さらに政治の面でも、新しい可能性を示した。代議制が、皇帝なしでも社会は動くと証明したのである。

経済における解放、知における解放、政治における解放が同時に加速するとき、「人は目的である」という相転移は、もう抑えられない。帝制は、倒されたのではない。表面上は、確かに打倒の過程があった。だが帝制を淘汰したのは、相転移だった。その根底の前提が、ますます多くの人々の自己認識と、和解しようのない衝突を起こしたのだ。

余項は消滅しない。余項は加速している。その加速が向かう先は、主体の解放である。

次篇で、このシリーズを締めくくる。清末から民国初期へ。帝制の崩壊から軍閥の抗争へ。統一の試みから日中戦争前夜へ。帝制が終わったあと、さまざまな構の案が廃墟の上で競い合った。それぞれが答えようとしたのは、同じ問いだった。二千年続いた3.5をアンインストールした中国に、どんな新しいOSを入れるのか。そして最後に問う。二千年の鑿と構の循環は、何を証明したのか。なぜ余項は消えないのか。鑿の切れ味が足りないからではない。構の出来が悪いからでもない。人が目的だからだ。その事実を、どんな構も永久には抑え込めない。構は閉じ切らない。人が発展しているからだ。鑿は止まらない。余項が加速しているからだ。