Non Dubito Essays in the Self-as-an-End Tradition
鑿構周期律 · 中華帝王シリーズ — 第22篇、全25篇

第22篇:明末清初――半分だけでは成り立たない

1644年は、中国の歴史が最も濃密に詰め込まれた一年だった。

Han Qin (秦汉)

1644年は、中国の歴史が最も濃密に詰め込まれた一年だった。

旧暦三月、李自成が北京に攻め入り、崇禎帝は首をつって死に、明は滅びた。旧暦四月、呉三桂が清軍を山海関の内側へ引き入れた。李自成を破った清軍は、旧暦五月に北京を占領した。その後の数年間、南方では南明の諸政権がかろうじて命脈を保ち、李自成と張献忠の農民軍は各地を逃げ回りながら崩れ、清は北から南へと着実に進んでいった。

三つの勢力が、同じ時間、同じ空間でぶつかった。それぞれの構型が抱える欠陥は、あまりにもはっきりしている。歴史がわざわざ教材を用意したのではないかと思えるほどだ。

李自成には鑿の能力があったが、天下を安定して治めるだけの構の能力が育っていなかった。南明には構の枠組みがあったが、鑿の力がなかった。満洲人の清には鑿の力も構への意欲もあったが、根本的な難問が待ち受けていた。異民族の政権を、すでに二千年にわたって動き続けてきた漢族文明の構型に、どう接ぎ木するのか。

三つの問題は、同じ教訓を指し示している。鑿と構は、組み合わせて備えなければならない。鑿だけで構がなければ、天下を奪えてもそこに居座ることができない。構だけで鑿がなければ、統治を安定させることはできても守り抜けない。両方あっても、異民族による接ぎ木のように組み合わせが合わなければ、かみ合わせるために莫大な代償を払うことになる。

一、李自成――鑿はあっても構がない

李自成は陝西の米脂出身で、もとは銀川の駅站で働く駅卒だった。崇禎帝が経費節減のため駅站を廃止すると、職を失った。これも明末の財政危機が引き起こした連鎖の一つである。失業に飢饉が重なり、彼は農民反乱軍に加わった。

失業した一人の駅卒が北京を攻め落とし、皇帝を名乗るまでに、約十五年かかった。李自成の軍事能力は否定できない。明軍に敗れてほとんど全滅に追い込まれることが何度もあり、商洛の山中では一時、わずか十八騎になった。それでもそのつど立ち直り、ついには北京までたどり着いた。この粘り強さには、並外れた意志の力と軍事的才能が要る。

だが北京に入った瞬間、李自成の問題が露呈した。

北京で何をしたのか。「追贓助餉」である。軍資金の調達を名目に、明の官僚や富裕層から大規模に財産を取り立て、拷問を加えて金銀を差し出させた。これは単なる軍紀の乱れではない。財産の追徴は組織的、系統的に行われ、劉宗敏ら中枢の将軍が指揮していた。つまり大順政権は、通常の租税収入で軍を支える安定した仕組みをまだ確立できず、軍の経費を強制的な取り立てに頼っていたのである。

略奪は財政ではない。財政とは、持続可能な、制度に基づく資源調達の仕組みだ。社会とのあいだには約束がある。あなたは税を納め、私は治安と公共サービスを提供する。略奪は一回きりである。一人の人間から金をすべて奪えば、その人の手元にはもう何も残らない。略奪で政権を長く運営し続けることはできない。

李自成が北京にいたのは四十二日間だった。そのあいだに官庁を置き、地方官を任命し、降伏した明の官僚を登用するなど、行政の仕組みをつくろうとはしていた。だが、それを全国にわたって安定して動く統治へと育てることはできなかった。略奪に代わる持続的な租税収入を確保できず、安民を掲げても社会秩序を安定させられず、明の官僚機構を継続して自らの政権のために働かせることにも失敗した。

なぜ、そうした試みは、実際に働く統治へと育たなかったのか。

李自成個人が愚かだったからではない。それまでの戦いでは、相当の政治的判断力を示していた。西安で大順政権を樹立した際には、制度づくりもいくらか試みている。よりありそうなのは、中枢の一団が、戦争のための組織を巨大な帝国の日常的な行政へと切り替えるだけの知識と経験を、十分に備えていなかったということだ。

劉宗敏、牛金星、宋献策。李自成の中枢では、軍人や世を渡る占術師が大きな役割を占めていた。旧明の官僚も加わっており、行政経験や政治制度の知識が皆無だったわけではない。しかし、それらを束ねて広い領土の日常行政を回す体制は整わなかった。牛金星は科挙の地方試験に合格した挙人で、側近のなかでは最も学のある人物だったが、その力量は行政の実務家というより策士に近かった。

劉邦とは鮮やかな対照をなす。劉邦自身も行政には明るくなかったが、彼には蕭何がいた。秦の行政機構を知り尽くした人物である。劉邦が咸陽に攻め入ったとき、蕭何が真っ先にしたのは、秦の戸籍、地図、法令文書を集めることだった。国を治めるための基礎データである。李自成の一団には「蕭何」がいなかった。北京で彼らが集めたのは金銀であって、文書ではなかった。

構の観点から見ると、李自成の大順政権は、鑿に著しく偏った組織だった。制度づくりの試みはあっても、その力は主に、城を落とし領土を奪うという破壊に向けられており、行政を安定して動かし続けるという建設の能力には結びつかなかった。鑿と構は、まったく別の技能である。鑿には軍事能力、暴力を組織する能力、従う者を奮い立たせる能力が要る。構には行政の設計、制度の整備、平時の統治能力が要る。

鑿しかできず、構をつくれない政権は、天下を取っても持ちこたえられない。どれほど短いのか。李自成が北京に入ってから、清軍に敗れて北京を退くまで、四十二日。北京を退いてから、1645年に湖北で殺されるまで、一年余り。皇帝を名乗ってから死ぬまで、二年にも満たなかった。

秦の十五年や隋の三十七年とも違う。あちらには少なくとも、動いている構型があった。うまく動いていなかったにせよ、である。李自成は、設けた制度を安定して働く構型へと育てられないまま滅ぼされた。中国史における「鑿はあっても、働く構がない」を、最も鮮明に示す事例である。

二、南明――構はあっても力がない

崇禎帝の自死後、明の皇族と生き残った官僚たちは、南方で相次いで政権を立てた。南京の弘光政権、福州の隆武政権、そして広東、広西、雲南へと拠点を移した永暦政権である。これらを総称して南明という。

南明は、バージョン3.5のOSが持つソフトウェア資源をすべて備えていた。朱氏の子孫という正統な支配の根拠。南方に大勢いた文官による官僚機構。儒教の言説と天下統一の物語というイデオロギー。そして、明の二百七十六年の統治が制度に残した慣性という歴史的記憶である。

ところが南明のソフトウェアが載っていたのは、ハードウェアがほとんどない土台だった。

軍事力は分散し、それぞれが独立していた。

南明には、一つの指揮系統のもとにある中央軍がなかった。兵力の出所はさまざまだ。各地に残る明の部隊、降伏したのち再び明の側に転じた農民軍、地方豪族の私兵。李自成の残党の将軍にも、のちに南明陣営へ加わった者がいる。これらの勢力は互いを疑い、互いの足を引っ張り、しばしば同士討ちまでした。清軍への抵抗より、内輪の争いに多くの力を使っていたのかもしれない。

誰の皇位が正統なのか、決着がつかなかった。

明の皇族は複数生き残っていた。皇位を継ぐ資格が最もあるのは誰なのか。文官の集団ごとに、推す皇族が違った。弘光政権は出発点から、「福王を立てるか、潞王を立てるか」をめぐって深く割れていた。この分裂に、政権の最初の、そして最も重要な数か月の時間と労力が費やされた。

文官政治の慣性が、かえって重荷になった。

南明の文官たちは、明末の悪習をそっくり引き継いだ。派閥争い、仲間内の偏見、国を誤らせる空論である。清軍の南下という脅威が目前に迫るなか、弘光朝廷が長い時間をかけて議論していたのは、崇禎帝の諡号をどうするか、亡くなったどの官僚に官位や爵位を追贈するか、明末に敵へ寝返ったどの官僚を処分するか、といった問題だった。

重要でないとは言わない。しかし、生きるか滅びるかの瀬戸際でこれを論じるのは、家が燃えているのに本棚を整理するようなものだ。

構の観点から見た南明の悲劇は、バージョン3.5の病巣をすべて受け継ぎながら、その強みを一つも受け継げなかったことにある。派閥争い、文官同士の消耗、皇位継承の不確実性、軍事力の分散は残った。だが、中央集権による行政の効率、科挙による人材の供給、統一指揮のもとで動く軍事力は失われた。

構が強みを発揮するのは、構全体が動いているからである。砕かれて破片だけになれば、その破片は強みを生むどころか重荷になる。破片どうしの接続部がもはや合わず、相互作用が摩擦と消耗に変わるからだ。

完全なバージョン3.5は、構がない状態よりはるかに強い。だが砕けたバージョン3.5は、構がないより悪いかもしれない。壊れた構が生む内輪の消耗、つまり派閥争い、正統性をめぐる争い、制度の慣性による硬直した反応が、その構のもたらす秩序を上回ってしまうからである。

南明の物語は、構をどこまで移植できるかについて、重い教訓を残している。構は、背負って持ち歩けるリュックではない。特定の土壌に根を張った生態系である。官僚、知識、制度の条文といった部品は持ち出せる。しかし、システムを動かす生態的な条件までは持ち出せない。中央の権威、統一された軍事力、安定した財政基盤、社会が従い続ける慣性。そうした条件がなければ、部品を積み上げたところで動きはしない。

南明は十八年間、1644年から1662年まで存続した。統一軍も、有効に働く中央政府も、安定した領土もなかったことを考えれば、十八年は驚くほど長い。これほど持ちこたえられたのは、主に二つの力による。一つは正統性を訴える言葉の力だ。多くの人が、なお明を正統の王朝と認めていた。もう一つは清が進軍の過程で犯した過ちである。剃髪令が引き起こした大規模な反抗は、南明に時間を与えた。

だが軍事力の裏づけがなければ、言葉の力も最後には効かなくなる。言葉によって敗北を先延ばしにすることはできる。言葉によって勝利を手にすることはできない。

いま振り返れば、南明には試されなかった選択肢がいくつもあった。ゲリラ戦、海外への展開、敵の背後での攪乱、そして李自成の残党や海外勢力も含め、組める相手すべてと組んだ非対称の抵抗網である。鄭成功はすでに、その一端に手をかけていた。台湾を拠点とし、海上交易を営み、海から清軍を悩ませた。ただしそれは一個人の軍事的直観であって、南明の体系的な戦略ではなかった。

なぜ南明はその道を選ばなかったのか。戦国時代の篇で、秦に向き合った六国について考えたのと同じである。非対称の戦略が実行不可能だったのではなく、時代の戦略的想像力がそこまで届いていなかった。二千年の戦略の伝統は、すべて大陸を舞台にしていた。正統性は中原の支配から生まれ、戦略の目標は旧都の奪回であり、戦争の方法は正面からの会戦だった。この伝統に浸りきった政権に、「中原は捨てよう。まず海へ出て生き残ろう」と言わせることは、発想のうえでほとんど不可能だった。南明の軍事行動は、どれも同じ目標を向いていた。北伐、南京の奪回、北京の奪回。当時の力関係ではほとんど達成できない目標だったが、目標そのものを変えることを、誰も思いつかなかった。

ここでも、「時代の窓」という考え方の正しさが裏づけられる。秦による六国統一と同じく、清の征服が成功した理由の一つは、相手が古い勝負の仕方にとどまっていたことだった。相手に非対称の戦いへ切り替える力があればどうか。引き延ばし、消耗させ、分散し、衝突を避ける。征服にかかる費用も時間も大きく増え、結果はまったく違ったかもしれない。ただし非対称の発想は、歴史の経験から生まれる。正面からぶつかって十分な数の敗北を重ねてこそ、「正面からはぶつからない」という戦略を導ける。南明の人々には、その経験の蓄積がなかった。彼らが受けた軍事教育は、すべて正面でどう戦うかを教えるものだったのである。

だから南明の敗北は、構型の失敗だけではない。戦略的想像力の失敗でもあった。構はあるのに力がないという構造的な不利は、確かに存在した。しかし不利があることと、必ず負けることは同じではない。弱い側が、強い側の強みを無効にする勝負の仕方を見つければ、結果は書き換えられる。南明はそれを見つけられなかった。これは惜しむべきことではあるが、定められた運命ではなかった。

三、清の入関――異民族による接ぎ木、三度目の試み

清の入関は、中国史において、異民族の政権が中原の主となる三度目の大規模な試みだった。

最初は、鮮卑の北魏である。これまでの篇で見たとおり、孝文帝は全面的な漢化を選び、その代償が六鎮の乱だった。二度目はモンゴル人の元である。これも前に見たが、何も選ばないことを選び、九十七年間をどうにかつないだ末に崩壊した。

清が向き合った根本問題も同じだった。少数民族による征服政権が、漢族を主体とする巨大な農耕社会を、どう治めるのか。

清の答えは、先の二例よりはるかに巧みだった。北魏のように全面的に漢化すれば、自らの民族としての独自性と軍事的優位を失う。元のように融合を拒めば、統治が長続きしない。清はその中間を進んだ。「選択的な接ぎ木」と呼べる道である。

何を接ぎ木するのか。

統治の仕組みには、漢族の制度を接ぎ木した。清は明の行政の枠組みを、ほとんど丸ごと受け継いだ。六部、都察院、大理寺、内閣(のちには軍機処)、科挙、地方の省・府・州・県の体系である。明の官僚機構を構成する部品は、すべて清の仕組みへ直接移植された。統治システムを一から設計する必要はなかった。二百年以上動いてきた、成熟した仕組みをそのまま使ったのである。

きわめて賢明な選択だった。元は漢族式の統治システムを使うことを拒み、あるいは形だけ使って、統治に失敗した。清はそのシステムを丸ごと引き受け、元の過ちを避けた。

何を接ぎ木しないのか。

権力の核心は接ぎ木しない。清は満洲の権力中枢である八旗制度を残した。八旗は、満洲の軍事と社会を一体に組織する仕組みだ。八旗に籍を置く満洲人、モンゴル人、そして少数の漢人が旗人であり、清の支配の中核をなした。軍事と政治の要職は旗人が握った。科挙は漢人にも開かれ、漢族知識人の参加を保証したが、最高意思決定の場を主導するのは、つねに満洲の貴族だった。

遼の二元的な構という発想を、さらに大きな規模で使い直したのである。一方のシステムで征服された人々を治める。漢族式の行政機構が漢族社会を管理する。もう一方のシステムで征服者の権力中枢を保つ。八旗制度が満洲貴族の結束と軍事能力を維持する。

二つのシステムのあいだにある亀裂を、何で埋めるのか。

清の独創性はここにある。二つのシステムをただ並べるのではなく、有機的につなぐための仕組みを、次々と生み出した。

満漢の二本立て制度。中央の各部には、満洲人と漢人の長官を一人ずつ置いた。満洲人の尚書と漢人の尚書が並ぶのである。地方にも同じような配置を設けた。これによって、双方のシステムに属する人々が、自分たちも統治に加わっていると感じられた。

理藩院。モンゴル、チベット、新疆など、漢族以外の民族が住む地域を専門に管轄する機関である。遼の二元的な構を、さらに広げたものだ。満洲と漢の二元にとどまらず、満洲、漢、モンゴル、チベット、ウイグルの多元へ。地域に応じて、異なる制度で統治した。

皇帝の多重の顔。清の皇帝は、漢族にとっては天子、満洲人にとっては大ハーン、モンゴル人にとってはボグド・ハーン、チベットでは文殊菩薩の化身だった。一人が同時に複数の正統性を担い、支配される集団ごとに違う顔を向ける。唐の太宗が掲げた「天可汗」の発想を、大きく押し広げたものだった。

構の観点から見れば、清の選択的な接ぎ木は、中国の帝政史で最も成熟した異民族統治の方法だった。過去二度の教訓を取り入れている。北魏は全面的な漢化によって軍事的優位を失い、六鎮の乱を招いた。元は融合を拒むことで統治能力を失い、九十七年をどうにかやり過ごした。清は、漢化と自らの独自性の維持のあいだに、動的な均衡を見いだした。漢族社会を有効に治められるところまでは漢化する。しかし満洲の中核をなす結束と軍事能力を失うところまでは、漢化しない。

この均衡は、入関から太平天国との戦争が始まる前まで、二百年近く続いた。二百年は永遠ではない。だが中国の帝政の尺度で見れば、十分に長い。

四、剃髪令――接ぎ木の代償

清が入関後に実施した政策のうち、最も激しい争いを招いたのが剃髪令である。漢族の男性すべてに、満洲の髪形にならい、頭髪を剃って辮髪を結うことを求めた。「首を残したければ髪を残すな。髪を残すなら首は残さない」。

剃髪令は、すさまじい反抗を引き起こした。江陰の八十一日間の籠城、嘉定で三度にわたって行われた虐殺。これらの血なまぐさい事件は、いずれも剃髪令と直接結びついている。すでに清の支配を受け入れた地域、あるいは受け入れようとしていた地域の多くが、この命令をきっかけに再び立ち上がった。

構の観点から見ると、剃髪令は失策ではない。選択的な接ぎ木を成り立たせるための、不可欠な部品だった。代償がきわめて大きかったことは、確かだが。

剃髪令は何をしたのか。日常生活のあらゆる瞬間に、征服する側とされた側の関係を刻みつけた。毎日鏡を見て自分の辮髪を目にするたびに、お前は征服された者なのだと思い知らされる。満洲人はその辮髪を見て、この者はすでに従ったのだとわかる。

論理のうえでは、孝文帝が胡服を禁じたのと、対称をなしている。孝文帝が鮮卑に漢族の服を着せたのは、胡と漢の外見の違いをなくし、皆を同じ姿にするためだった。清が漢人に満洲の髪形を強いたのは、違いをなくすためではない。剃髪令の後も、満洲人と漢人の髪形は完全に同じではなかった。狙いは一人ひとりの身体に、服従の印を刻むことだった。

なぜ清は、その印を必要としたのか。選択的な接ぎ木には、内側に矛盾があるからだ。制度の面で漢人の仕組みを使えば、漢人はこう思うかもしれない。「われわれのものを使って、われわれを治めているだけではないか。何がそんなに偉いのだ」。剃髪令は、文化と心理の面に防衛線を引いた。行政機構で漢人を登用しても、その身体にはなお、征服された印がある。この防衛線によって、漢人が「制度への参加」を「政治上の平等」と読み違えることを防いだのである。

代償は巨大だった。剃髪令に対する反抗は、清が統一を果たすまでの時間を延ばし、征服をいっそう血なまぐさいものにし、漢族社会に深い恨みを残した。それでも清の支配者にとっては、受け入れられる代償だった。剃髪を命じず、漢人が外見の独立性を保つのを認めるという別案は、長い目で見て、もっと大きな危険を招くかもしれなかったからである。

剃髪令は、「目先の代償と引き換えに、長期の安全を得る」という決断の典型だった。目先の代償は、激しい反抗と膨大な死者である。長期の利益は、征服が終わった後、征服された側が身体のうえでも心理のうえでも、服従した状態になじんでいることだった。数世代を経ると、辮髪は屈辱の象徴から日常の習慣に変わり、ついには自分が何者かを示す一部にさえなった。清末、革命派が辮髪を切るよう求めたときには、逆に切りたがらない人が大勢いたのである。

余項、すなわち征服された側の抵抗意識は、時間によって消化された。しかし消化には時間がかかり、最初の数十年が最も苦しい。清がこの消化をおおむね終えるまでには、入関から康熙年間の中ごろまで、約半世紀を要した。

五、三つの勢力の衝突が示した構造上の教訓

1644年の三つ巴に戻ると、鑿と構の関係について、いくつかの深い教訓を取り出せる。

第一に、鑿と構を組み合わせることは、任意ではなく必須である。

李自成は、鑿に見合うだけの、実際に働く構がなければ駄目だと示した。天下は取れても、安定して治める仕組みを動かせなければ、そこにとどまれない。南明は、構だけあっても鑿がなければ駄目だと示した。統治の枠組みはあっても軍事力がなく、守り抜けない。清が最後に勝ち残ったのは、三者のうちただ一つ、鑿の能力である八旗軍の戦闘力と、構への意欲および能力である漢族制度の選択的な接ぎ木を、ともに備えていたからだった。

清が「最良」だったという話ではない。あの特定の競争環境では、鑿と構の組み合わせがよく整っている側に、構造上の優位があったという話である。優位は必勝を意味しない。呉三桂の選択、北京で李自成が下した個々の決断、南明内部のある権力闘争の行方。そうした偶然の要素が、結果を変えることもありえた。ただし構造上の優位があるということは、起こりえた展開の多くにおいて、両者の組み合わせが整っている側の勝つ確率が高いということだ。

第二に、構は発明するより接ぎ木するほうが実用的である。

清は新しい統治制度を何一つ発明していない。科挙、六部、省・府・州・県。その制度はすべて、明から直接引き写したものだった。清の「革新」は、何か新しいものを発明したことではない。すでにあるシステムを、別の権力構造へうまく接ぎ木したことにあった。

接ぎ木は、発明よりはるかに安くつく。新しいシステムを生み出すには、数十年の試行錯誤が必要だ。秦では商鞅から始皇帝まで百年以上、漢では高祖から武帝まで七十年かかった。できあがったシステムを接ぎ木するなら、解くべきは接続の問題である。自分たちの権力構造と、漢族式の行政システムを、どうつなぐか。清は、満漢の二本立て制度、理藩院、皇帝の多重の顔といった仕組みによって、その問題を解いた。

第三に、異民族政権の接ぎ木には、避けられない余項がある。アイデンティティーをめぐる緊張である。

あなたは満洲人なのか、それとも中国人なのか。清の時代の大半を通じて、この問いは抑え込まれていた。八旗制度が満洲人の独立したアイデンティティーを保ち、漢族式の行政機構が漢族社会を通常どおり動かす。その両方が、皇帝の多重の顔のもとで共存していた。

だが、この共存はもろかった。清末になり、西洋列強という外からの圧力と、太平天国という内側の危機が同時に襲うと、アイデンティティーをめぐる緊張が噴き出し始めた。満洲人と漢人の権力配分が、公然と論じられる政治問題となった。「排満」は革命派の中心的なスローガンの一つになった。選択的な接ぎ木の継ぎ目が、圧力のもとで裂け始めたのである。

接ぎ木は融合ではない。接ぎ木では、二つのものはつながっても、なお二つのままである。融合では、二つのものが一つの新しいものになる。北魏の孝文帝が求めたのは、漢化という融合だった。その代償が六鎮の乱である。清が求めたのは、二つのシステムを並行して動かす接ぎ木だった。その代償は、継ぎ目が裂ける危険がつねに残ることだった。

代償のない選択はない。融合の代償は、改革によって排除された集団が反撃に出るという、内部の分裂である。接ぎ木の代償は、アイデンティティーをめぐる長期の緊張だ。二つのシステムのあいだにある亀裂は、いずれ圧力のもとで姿を現す。

第四に、征服は、それまでの王朝交代になかった新たな次元を持ち込んだ。民族問題である。

それ以前の王朝交代、たとえば漢が秦に代わり、唐が隋に代わり、宋が五代に代わったときは、いずれも漢族内部の権力交代だった。OSの入れ替えに、民族としての帰属はかかわらなかった。皇帝の姓は変わっても、社会を構成する民族は変わらなかったのである。

元と清の成立は、それとは違う。皇帝の姓が変わっただけでなく、新たな民族集団が支配層として入ってきた。どの王朝にもある余項、つまり土地の兼併、官僚の腐敗、財政危機に加え、異民族王朝はもう一つの余項を抱えた。民族間の関係である。この余項は漢族王朝の構型にはなかったから、漢族王朝の統治経験を、そのまま手本にすることはできなかった。

元は、この余項をうまく扱えなかった。人々を四つの等級に分ける制度で力ずくで押さえ込み、九十七年後に爆発させた。清ははるかにうまく扱った。選択的な接ぎ木に、時間をかけた消化を組み合わせたのである。それでも完全には解決しなかった。清末の排満運動は、二百五十年たっても、この余項が再び動き出しうることを示した。

民族問題は、とりわけ長く残る余項である。経済や行政の問題よりも消化しにくい。アイデンティティーにかかわるからだ。アイデンティティーは、人間が最も深いところで自分を定義するものの一つである。経済の問題は改革によって解ける。行政の問題は制度の設計によって解ける。しかし、「私は誰なのか」という問いへの答えを、何らかの政策で変えることは、きわめて難しい。

六、次回へ

明末清初の三つの勢力の衝突から、中国の帝政史上最後の統一王朝が成立した。清は1644年から1912年まで、二百六十八年にわたって中国を統治することになる。

次の篇では清の時代に入る。清の前期から中期にかけて、満漢二本立ての構がどう動いたか。康熙・雍正・乾隆の三代には、それぞれどのような統治の特徴があったか。雍正帝は、構を扱う技術の達人だった。密折制度、軍機処、攤丁入畝、改土帰流。どれも構を精密に調整する手立てである。乾隆年間の後半は、規模の大きさゆえに構が機能不全を起こし始める出発点となる。そして清の後期へ。太平天国、洋務運動、戊戌の変法。二千年続いてきたOSが、初めて、まったく理解できない相手に出会う。工業文明である。