第21篇:明中後期――構の硬直化と自己分裂
朱元璋が設計したのは、中国の帝制史上、最も密度の高い構だった。だが、その死から百年もたたないうちに、社会そのものの動きがこの構を原形をとどめないほど変えてしまった。海禁は密貿易に押し流され、衛所は兵の逃亡によって空洞化し、里甲制は人口の移動によって骨抜きになった。骨格は残っていても、血肉はすっかり入れ替わっていた。
朱元璋が設計したのは、中国の帝制史上、最も密度の高い構だった。だが、その死から百年もたたないうちに、社会そのものの動きがこの構を原形をとどめないほど変えてしまった。海禁は密貿易に押し流され、衛所は兵の逃亡によって空洞化し、里甲制は人口の移動によって骨抜きになった。骨格は残っていても、血肉はすっかり入れ替わっていた。
しかし、これは明が衰退していたことを意味しない。むしろ逆である。明中期、おおよそ宣徳年間から万暦初期までの1426~1582年は、中国の帝制史上、最も興味深い時期の一つだ。朱元璋が偏執的に組み上げた構が緩むと、社会はその骨格の隙間に、彼なら決して許さなかったものを次々と育てた。繁栄する商業、活発な思想、自律的な地域社会、強大な文官政治。構は硬直していくのに、社会は成長していく。構と社会との緊張は高まり続け、ついには明末、引き裂かれるというかたちで解放される。
これは、構が人を必要としないほど硬直していく物語であり、社会が構を必要としないほどの生命力を得る物語でもある。どちらも前へ進んでいた。ただし、進む方向は違っていた。
一、内閣――秘書から事実上の丞相へ
前篇で述べたように、丞相の廃止から五十年もたたないうちに、内閣首輔が事実上、丞相の機能を引き継いだ。この過程は詳しく見るに値する。
永楽帝、朱棣の時代に内閣が生まれ始める。当初は、翰林院の学士数人が「内閣」に選ばれ、皇帝のために文書を起草し、上奏文を整理するだけだった。行政上の権限はなく、直接命令を下すこともできない。皇帝個人の顧問にすぎず、官職も品階も低かった。
ところが時を経るにつれ、微妙な権力の移動が起きた。皇帝のもとには毎日数百件もの上奏文が届く。すべてを自分で処理するのは不可能だ。内閣大学士は、皇帝に代わって回答案を起草するようになった。これを「票擬」という。皇帝は票擬を読み、よいと思えば朱筆で「准」と書き入れる。これが「批紅」である。皇帝が批紅すら面倒がるようになると、その権限は司礼監の宦官へ移っていく。後の皇帝には、実際にそういう者が多かった。
こうして巧妙な三角形の構造ができあがった。内閣が票擬によって案を出し、司礼監が批紅によって皇帝の最終決定権を代行し、皇帝は背後で最後の裁定を下す。ただし、本人に口を出す気があれば、の話だ。
構という観点から見れば、この三角構造は、丞相廃止後に起きた、システムの自発的な修復だった。朱元璋が緩衝層を削除すると、システムは自ら新しい緩衝層を生やした。その名は丞相ではない。その名称は禁じられていた。代わりに内閣首輔と呼ばれた。新しい緩衝層に法定の権力はない。朱元璋の祖訓が認めないからだ。だが、事実上の権力はあった。皇帝はこの人物なしではやっていけなかったからだ。
名と実が、ここでも分かれた。名目上、丞相はいない。実際にはいる。名目上、皇帝が万機を親裁する。実際には内閣が決め、宦官が判を押す。名目上、これは朱元璋の設計した制度だ。実際の姿を朱元璋が見たら、怒りのあまり孝陵から這い出してくるだろう。
だが、この名実の分離には利点が一つあった。システムに弾力性を与えたのである。正式な制度、すなわち祖制は変えられない。祖制を変えるのは大逆だからだ。しかし、非公式な権力の配分ならいつでも調整できる。内閣首輔の権力の大きさを決めるのは、制度の規定ではなく、本人の力量と皇帝との関係だった。つまり、正式な制度を変えずに、現実の必要に応じて権力を配分し直せたのである。
弾力性は、名と実を分けることで得られた。正式な制度は、曲げようのない硬い骨格に似ている。非公式の取り決めは、その骨格に付いた筋肉や靱帯だ。骨格にはない柔軟性をもたらす。骨格が硬いほど、筋肉や靱帯による補いが必要になる。明の正式な制度は歴代王朝の中で最も硬直していた。祖制は変更不可だったからだ。だからこそ、非公式な取り決めも歴代王朝の中で最も発達した。
これは、意図を外れたところでうまくいった制度進化である。設計者が求めたのは剛直なシステムだったのに、そのシステムは自ら柔軟な補完部分を生み出した。設計者が生きていれば、こうした補完には反対しただろう。だが、システムが生き延びるには不可欠だった。設計者の遺志と、自らが生き延びるための必要。その二つの間で、システムは後者を選んだ。
二、張居正――構の内部改革が達した最後の頂点
張居正(1525~1582年)は明で最も有能な政治家であり、中国の帝制史上、体系的な改革を行う力を備えた最後の文官だったかもしれない。
万暦初期の1572~1582年、張居正は内閣首輔として一連の改革を進めた。
考成法。
官僚の目標達成度を厳しく考課した。政務の一件一件に完了期限を設け、各段階で履行を追跡する。果たせなければ降格、あるいは罷免。百年以上にわたって緩んでいた官僚機構のぜんまいを、もう一度巻き直したようなものだった。
考成法の効果は、たちどころに現れた。行政効率は大幅に上がり、滞っていた政務は片づき、先延ばしや責任転嫁の風潮は抑えられた。張居正が考成法を推し進めた十年間、明の行政効率は王朝全体を通じて最高の水準に達していたかもしれない。
一条鞭法。
さまざまな名目に分かれていた租税と徭役を一本にまとめ、銀の重量単位である両に換算して徴収した。税制を大幅に簡素化する改革だった。それまで農民は穀物を納め、布を納め、さまざまな名目の労役に服さねばならなかった。項目は多く、基準も入り乱れ、官僚が不正を働く余地はいくらでもあった。一条鞭法はすべてを一件の銀納にまとめた。仕組みは単純で透明になり、腐敗の余地も狭まった。
一条鞭法には、さらに深い意味がある。基礎通貨としての銀の事実上の地位を認めたことだ。明は正式な制度の上では一貫して銅銭と紙幣の大明宝鈔を使っていた。しかし宝鈔はとうに紙くず同然に値下がりし、民間の取引ではとっくに銀が使われていた。銀を基準に税額を算定する一条鞭法は、社会が自発的に作り上げた貨幣秩序を、制度の側から追認したに等しい。
ここでも、社会が制度に先行していた。社会はすでに銀を使っているのに、制度はまだ銅銭と紙幣を使っているふりをしていた。張居正がしたのは新しいものを生み出すことではなく、社会の現実に制度を追いつかせることだった。
土地の清丈。
全国で土地を測り直し、隠田を洗い出した。朱元璋の時代に編まれた全国の土地台帳『魚鱗図冊』は、二百年を経て実態から大きくかけ離れていた。大量の土地が隠され、兼併され、虚偽の申告がなされていたのである。課税の基礎資料が不正確では、公平な徴税など望めない。
清丈の結果、登録し直された土地の面積は大幅に増えた。隠田が明るみに出たからである。それに応じて税収も増え、財政は著しく改善した。
張居正の改革は、方向も方法も正しかった。在任した十年間、国庫は満ち、国境は安定し、行政は効率よく動いた。改革が続いていれば、明はもっと長く存続していたかもしれない。
しかし、その改革には致命的な構造上の弱点があった。推進力のすべてが、張居正ただ一人に由来していたのである。
張居正が改革を進められたのは、三つの条件がそろっていたからだ。第一に、万暦帝は幼く、皇太后が張居正を信任していた。事実上、皇帝の権力を代行できたのである。第二に、反対派を抑え込めるだけの政治手腕を本人が持っていた。第三に、人の恨みを買うことを恐れなかった。考成法は怠惰な官僚を敵に回し、一条鞭法は旧来の税制で利益を得ていた地方勢力を敵に回し、土地の清丈は隠田を抱える豪族を敵に回した。
この三つはどれも制度上の条件ではなく、個人に属する条件だった。万暦帝は成長すれば、もう張居正を必要としなくなるかもしれない。政治手腕は張居正個人の能力であり、人に引き渡せない。恨みを買うことを恐れないのも本人の性格であり、複製はできない。
1582年、張居正は死去した。親政を始めた万暦帝は、ただちに張居正を断罪した。家産は没収され、官職は死後に剝奪され、あやうく棺を開かれて遺骸に鞭打たれるところだった。改革は一部残った。一条鞭法は実際の効果があまりによかったため、全面廃止には至らなかった。だが、改革の精神と推進力は、張居正の死とともに消えた。
王安石の変法と、まったく同じ結末である。改革者が死ぬか失脚すれば、改革も止まる。改革を動かすのが制度ではなく個人だからだ。特定の人物に頼らずに改革を進め続けられる、制度化された改革の仕組み。そうしたものは、中国の帝制という枠組みの中では、ついに一度も生み出されなかった。
なぜ生まれなかったのか。皇帝がすべての権力を持つというのが、帝制の核心にある論理だからだ。改革には皇帝の支持が要る。皇帝を迂回して改革することはできない。しかし、その支持が得られるかどうかは偶然に左右される。皇帝個人の判断、性格、好みによって決まるのだ。改革を支持するよう皇帝に強いることはできない。だから帝制の枠内にある限り、改革はいつまでも偶然的で、個人に依存し、制度化できない。
これが、バージョン3.0/3.5のオペレーティングシステムにある一つの天井だ。システムは自発的に修復できる。内閣制の誕生がそうだった。パラメーターの範囲内での調整もできる。張居正の改革がそうだった。だが、自らをアップグレードすることはできない。そのためには枠組みそのものを変えねばならず、変更の権限は皇帝に属している。そして皇帝には、自分にすべての権力を与えてくれる枠組みを変える動機がない。
システムから最大の利益を得る者が、そのシステムの改革を阻むボトルネックになる。この逆説は、あらゆる集権体制に存在する。
三、万暦帝の怠政――構はもう人を必要としない
万暦帝の在位は1572~1620年の四十八年間。そのうち、およそ三十年間は朝廷に出なかった。
朝廷に出ないとはどういうことか。大臣と顔を合わせて政務を討議する正式な会議である朝会を開かず、大臣に会わず、上奏文の大半に目を通して裁可せず、欠員を補うための官僚任命もしないということだ。万暦年間の後半には、朝廷の重要な職の多くが長く空席のままになった。中央の各部や地方の省で高官の欠員が相次いでも、皇帝が任命を認めないため、誰も補充されなかった。
皇帝が三十年も仕事に出てこない。それでも帝国は崩壊しなかった。この事実だけで、きわめて強力な証拠になる。
何の証拠なのか。
第一に、構は無人運転ができるほど硬直していた。
内閣、六部、地方官僚から成る明の行政システムは、二百年の運用を経て独自の慣性を身につけていた。日々の政務の大半は、定められた手順に沿って自動的に処理され、皇帝の関与を必要としない。税は一条鞭法の枠組みに従って徴収され、官僚は考課制度に従って動き、法は『大明律』に従って執行される。プログラムを組み込まれた機械のように、システムはあらかじめ設定された軌道を進んでいた。
その機械の中で、皇帝は何を担うのか。最終的な意思決定者として、手順だけでは自動処理できない例外的な事態を扱うのである。万暦中期の社会は比較的安定していた。そうした例外が多くなければ、皇帝が決定を下さなくても、システムは慣性で動き続けられる。
第二に、構はどんな変化にも対応できないほど硬直していた。
万暦帝が政務を怠っている間、明はいかなる重要な政策調整もできなかった。遼東ではヌルハチ率いる建州女真が台頭していた。防備を強める必要がある。だが、そのために要る予算の支出も人事も、皇帝の裁可が下りない。朝廷では党争が激化していた。皇帝が仲裁に出る必要がある。だが、皇帝は関わらない。地方では社会的な矛盾が積み重なっていた。政策を調整して解きほぐす必要がある。だが、皇帝は取り合わない。
慣性があれば、機械は平らな道を走り続けられる。しかし道が曲がったら、建州女真が台頭したら、どうするのか。障害物が現れたら、党争が激化したら、どうするのか。慣性ではハンドルを切れないし、ブレーキも踏めない。その操作をする運転手が要る。だが運転手はいない。後宮にこもって出てこないのだ。
万暦帝の怠政は、一つの命題を完璧に実証した実験だった。硬直しすぎた構は、正常な条件の下では自動で動くが、異常な条件の下では自らを調整できない。自動運転と自己調整は、まったく別の能力である。前者には慣性さえあればよい。後者には判断力が要る。構は慣性を供給できても、判断力は供給できない。判断力は、人からしか生まれない。
日々の運転を維持するために人を必要としなくなったとき、構は堅固に見える。だが、「人が要らない」とは、まさに「人を生かせない」ということなのだ。変化に対応しようと人間の判断力を必要としたとき、構は気づく。すでに人を締め出してしまっていたことに。硬直化の代償を払うのは平時ではない。危機のときである。ふだんは何をもってしても壊せそうにないものが、危機に触れたとたん砕け散る。硬さと脆さは、同じ材質を二通りに言い表したものだからだ。
第三に、万暦帝の怠政は帝制の根本的な問題をさらけ出した。システムが正常に動くかどうかは、制御できない一つの確率変数、皇帝個人の意志に依存している。
皇帝に働く気があれば、システムには対応する力がある。貞観の治がそれだ。皇帝に働く気がなければ、その力は失われる。万暦帝の怠政がそれだ。皇帝に働けと強制することはできない。最高権力者である皇帝に命令する権限を持つ者はいない。働かない皇帝を取り替えることもできない。帝制の枠内には、皇帝を罷免する合法的な手続きがないからだ。
これは構造上、後漢の幼帝問題と同じ種類の問題である。システムの運命が、システム自身には制御できない変数に左右される。後漢でその変数だったのは、皇帝の年齢だ。幼い皇帝は親政できない。明で変数となったのは、皇帝の意志である。親政する能力はあっても、その気がない。結果は同じだ。最高意思決定者からの入力を失ったシステムは慣性で動き始め、やがて慣性だけでは足りなくなる。
四、東林党争――構が内側から自らを引き裂く
万暦年間の後半から天啓・崇禎年間にかけて、明の政治を支配したのは党争だった。
東林党は、無錫の東林書院を中心に集まった文官たちである。実直さと清廉さを重んじ、宦官の政治介入に反対し、弊政の改革を訴えた。指導者には顧憲成、高攀竜、楊漣、左光斗らがいた。
斉党・楚党・浙党は、東林党に反対する他の官僚派閥だった。後には魏忠賢によって閹党にまとめられる。その全員が悪人だったとは限らない。だが、政治上の立場は東林党と対立していた。
双方の争いは、政策上の意見の違いから始まった。鉱税、遼東の防備、皇太子の冊立といった問題である。それが次第に、純然たる派閥闘争へと変わっていった。「その案は正しいのか」を論じるのではなく、「お前はどちら側の人間か」で立場を分ける争いになったのである。
天啓帝の在位中(1620~1627年)、権力を握った宦官の魏忠賢は東林党に大規模な迫害を加え、楊漣や左光斗らを拷問して殺した。即位した崇禎帝は魏忠賢を粛清する。しかし復権した東林党も、他の派閥との争いを続けた。党争は明の最後の六十年間を貫き、1644年の滅亡に至るまでやまなかった。
構という観点から見れば、東林党争とは、文官の構が内部から自らを引き裂くことだった。北宋の新党・旧党の争いと、構造はまったく同じである。
科挙制度は、巨大な文官階層を作り出した。全員が儒学を信奉するという意味で、思想的には一つにまとまっていた。だが政治上の立場では、いくつもの派閥に分かれうる。システム全体の利益を共有する意識よりも、派閥どうしの対立が強くなったとき。「国を治める」より「相手を倒す」ことのほうが重要になったとき。文官階層は、システムを支える柱から、システムにとっての消耗品に変わる。
支柱が消耗品に変わる危険は、文官の構に初めから内在している。科挙制度はシステムに忠実な文官を生み出す。これが支柱としての機能だ。しかし文官たちは、内部で自然に派閥を作る。政策への意見が違い、人事で好む相手も違うからである。派閥どうしの争いはシステムの力を食いつぶす。これが消耗させる機能だ。支柱の働きだけが欲しい、消耗させる働きは要らない、というわけにはいかない。同じ人々の、二つの行動様式なのだから。
東林党争が北宋の党争より致命的だったのは、明の制度環境がいっそう硬直していたからだ。北宋には少なくとも、皇帝として十分に機能し、党争を御そうとする神宗がいた。明末ではそうはいかない。万暦帝は関わろうとせず、天啓帝には関わる力がなく、崇禎帝にはその気があっても、もはや間に合わなかった。有効な仲裁者を欠く党争は消耗戦になる。双方が相手の人材と資源を潰し合い、システムの人材の蓄えが尽きるまで続くのである。
即位した崇禎帝が向き合った朝廷は、何十年もの党争に痛めつけられ、すでに満身創痍だった。有能な者は殺されていた。魏忠賢に迫害された東林党人がそうだ。あるいは排斥されていた。東林党に属さない有能な臣下が、東林党によって締め出されていた。あるいは沈黙を身につけていた。粛清を何度もくぐり抜けて生き残った者は、みな頭を出さない術を覚えていた。崇禎帝自身は勤勉で倹約家であり、改革の意志もあった。だが、その手には使える人材がいなかった。
仕事をしたい皇帝と、人材のいない朝廷。この組み合わせは、エンジンはあっても車輪のない車と同じだ。エンジンはうなりを上げるのに、車はその場で空回りする。崇禎帝は在位十七年間に、計五十人を内閣大学士に任じた。単純に割れば、約四か月に一人を任命した計算になる。これは任命の頻度であって、一人ひとりの平均在任期間ではない。この頻度自体が問題を物語っている。使える人材が見つからなかったのだ。天下に人材がいなかったのではない。党争が人材を選び出す道を塞いでいた。こちらの派閥か、あちらの派閥か、どちらかに属さねばならない。どちらにも属さない者は、最も有能だったかもしれないのに、両派の狭間で締め出された。
システムが最も人材を必要とするときこそ、システムが最も人材を生み出せないときでもある。これが党争の究極の皮肉だ。
五、明末の三方面の崩壊――余項が一斉に支払期日を迎える
明の滅亡は、一つの原因から生じたのではない。三つの方面が同時に崩壊した結果だった。
第一の方面は、財政の崩壊。
万暦の三大征、朝鮮の役、寧夏の役、播州の役が、張居正の蓄えた財政余剰を食いつぶした。遼東では後金に対する軍事支出が増え続けた。小氷期がもたらす相次ぐ災害と飢饉は税収を減らした。この三つが重なり、財政は回復不能の赤字に陥った。
遼東の防衛、反乱の鎮圧、兵の訓練にかかる軍費を賄おうと、朝廷はそれぞれ「遼餉」「剿餉」「練餉」を追加徴収した。三餉加派である。災害と飢饉ですでに窮地にあった農民を、追加の税がさらに押し潰した。増税→農民の破産→流民の増加→反乱→鎮圧に必要な軍費の増加→さらなる増税。悪循環が動き出した。
第二の方面は、軍事の崩壊。
衛所制は、とうに名ばかりのものになっていた。明末の軍事力は、主に各地の将軍が自ら募った私兵に頼っていた。戚継光の戚家軍、李成梁の遼東鉄騎、袁崇煥の関寧軍である。こうした軍の戦闘力を決めるのは、制度ではなく、将軍個人の力量と兵士との私的な結びつきだった。
将軍と朝廷の間には、信頼がほとんどなかった。朝廷は、将軍が兵を抱えて独自の勢力を張ることを疑った。崇禎帝は袁崇煥を殺した。将軍は、渡り終えた橋を壊すように、朝廷が用済みの自分たちを切り捨てるのではないかと疑った。猜疑は、軍事上の決定を何度もためらわせ、致命的な過ちを招いた。
第三の方面は、社会の崩壊。
小氷期には災害と飢饉が年々続き、1630年代には干魃、蝗害、疫病が北方の各省でほぼ同時に発生した。大勢の農民が、生きていける最低線より下へ突き落とされた。そこへ三餉加派の重税が重なる。農民反乱は、小さな火から野を焼き尽くす炎になった。李自成と張献忠の反乱軍は、数百人から数十万人へと膨れ上がった。
1644年、李自成が北京に攻め入った。崇禎帝は煤山で首をつった。明は滅亡した。
三方面の崩壊は、それぞれ独立していたわけではない。互いを強め合っていた。財政の崩壊→軍事力の不足→反乱を鎮圧できない→反乱の拡大→税源のさらなる縮小→財政のいっそうの崩壊。災害と飢饉→流民→反乱→軍事鎮圧に必要な資源の増加→増税→さらに多くの農民が破産→流民のさらなる増加。一つの方面の悪化が、残る二つの悪化を速めた。三つの悪循環は互いに入り組み、後戻りできない崩壊の渦を作り出した。
構という観点から見れば、明末の三方面の崩壊は、先延ばしされていた代償が支払期日を迎えた、一斉の総清算だった。
衛所制の崩壊。朱元璋が二百年以上前に埋め込んだ設計上の欠陥が、二百年遅れで支払期日を迎えたのである。
財政制度の硬直化。銀の流入、商業の発展、人口の増加が経済構造を変えても、明の税制はそれに対応できなかった。祖制は変えられないからだ。
党争による行政能力の消耗。数十年の内紛が、システムの人材の蓄えも、協働する力も、すっかり食いつぶした。
小氷期は外からの引き金だった。崩壊の原因ではない。だが、すでに臨界点まで蓄積していた内部の余項を、一斉に噴き出させた。小氷期がなければ、明はもうしばらく持ちこたえたかもしれない。しかし、「もうしばらく持ちこたえる」は「崩壊しない」と同じではない。余項はすでにそこまで積み上がっていた。十分に大きな外部からの衝撃であれば、何であれ崩壊を引き起こしただろう。たまたま、その衝撃が小氷期だったのである。
明の滅亡は偶然の出来事ではない。二百七十六年にわたって積み上がった余項の総勘定だ。請求書の一項一項をたどれば、具体的な制度設計上の選択に行き着く。朱元璋までさかのぼるものもあれば、その後のある政策決定に行き着くものもあり、行われなかったある改革に行き着くものもある。一つ一つはどれも、「そのときは合理的に見えた選択」だった。だが、合理的な選択の代償も累積する。二百七十六年分が積み上がったとき、その総額は誰にも支払いきれないものになっていた。
六、明が周期律に残したもの
鑿と構の周期律において、明の二百七十六年が占める位置は、こう要約できる。密度を最大にした条件の下で、バージョン3.5のオペレーティングシステムを動かした限界試験である。
第一に、密度には上限がある。
朱元璋は、構の密度を人間の力の限界まで押し上げた。そして、一人の操作者が維持できる構の密度には天井があることを証明した。たとえ最も精力旺盛な操作者であっても、その天井はある。天井を超えた部分は、操作者の死後、ひとりでに緩んで天井の下へ戻る。長期にわたる構の密度を決めるのは、設計者の意志ではない。普通の操作者が持つ能力の上限である。
第二に、制度の名称は消せても、制度への需要は消せない。
丞相が廃止されると、内閣首輔がその機能を引き継いだ。これは、制度が現実の需要への応答であることを証明している。ある制度の名前を禁じることはできる。しかし、その制度が応えていた需要まで禁じることはできない。需要は、自らを満たす新しい制度のかたちを自分で見つけ出す。
第三に、硬直した構は正常な条件の下では自動で動くが、異常な条件の下では自らを調整できない。
万暦帝の怠政が、これを証明した。三十年も皇帝が朝廷に出ないのに帝国が崩壊しなかったのは、構の慣性が強かったからだ。しかし、その三十年の慣性運転の間に積もった問題、遼東の危機、党争、財政の悪化は、一つも処理されなかった。処理するには判断力が要り、慣性は判断力をもたらさないからである。
第四に、構の内部改革の天井は、集権そのものである。
張居正の改革が証明したのは、帝制の枠内では、改革は個人の力でしか進められず、制度の力では進められないということだ。改革には枠内のいくつかのパラメーターを変える必要があり、その変更権は皇帝に属する。皇帝が支持すれば変えられる。支持しなければ変えられない。皇帝の支持とは、制度化できない確率変数なのである。
だから帝制の枠内で成功した改革には、商鞅の変法にも、王安石の変法にも、張居正の改革にも、共通の特徴がある。改革を支持する強力な操作者がいて、その力で押し切るのだ。秦の孝公、宋の神宗、万暦初期の皇太后と張居正が、それぞれその役を担った。強力な操作者がいなくなると、改革は止まる。あるいは逆転する。改革の運命は、改革者個人の運命と固く結びついている。偶然ではない。構造によってそうなるのである。
ここに、集権体制の改革の逆説がある。改革を進めるには、反対派を迂回するために権力を集中させねばならない。だが、その集権自体が、改革の解決すべき問題の一部でもある。集権を使って改革を進め、改革が成功すれば、集権はいっそう強まる。すると次の改革は、権力を集中させた者の個人的な意志に、さらに深く依存することになる。次に権力を握った者に改革の意志がなかったら、どうなるのか。その場で立ち往生するしかない。
この逆説は、二千年間、一度も解かれなかった。帝制の枠内では解けないのである。解くには集権そのものを変えねばならず、集権を変えるには権力を集中させた者の同意が要る。そして、その者は自分の権力を弱めることに同意しない。
これは、制度の次元における余項保存則の究極の表現だ。集権は帝制の土台であり、同時に帝制の天井でもある。土台と天井は、同じ一枚の板なのだ。土台を揺るがさずに天井を高くすることはできない。天井を押し下げずに土台を補強することもできない。
次篇は明末清初。李自成・張献忠、南明の諸政権、そして山海関を越えて入ってくる満洲族の清。三者の構が衝突する。李自成の問題は、鑿があっても構がないこと。南明の問題は、構があっても力がないこと。清の問題は、異民族の構をどう接ぎ木するかにある。三つの問題が指し示す答えは同じだ。片方だけでは、成り立たない。