十字軍——構と構の長期的接触
二百年の相互刻印——純粋な勝利者も敗北者も存在しなかった
一 クレルモンの号令——複数動機の重合
1095年のクレルモン公会議でウルバヌス二世が第一回十字軍を呼びかけた時、動機は単一ではなかった。ビザンツ皇帝アレクセイオス一世の軍事援助要請(マンジケルト後のセルジューク朝の脅威への対応)、教皇権の拡張(叙任権闘争で消耗した後の道徳的権威の回復機会)、封建貴族の経済的・政治的衝動(長子相続制のもとで土地を持てない次男以降の騎士への出口)、純粋な宗教的熱情(聖地の解放とエルサレムへの巡礼路の確保)。
これら複数の動機が一点に集合した。「デウス・ロ・ウルト(神の御意志)」の叫びが群衆を席巻した。この複数動機の重合こそが十字軍が大規模な社会運動になれた理由だ。どれか単一の動機だけでは動員できなかった規模が、動機の重合によって可能になった——宗教的熱情が封建的拡張衝動に「神聖な目的」を与え、封建的拡張衝動が宗教的熱情に「実行の手段」を与えた。
二 民衆十字軍と1096年のポグロム
正規の十字軍に先行して、1096年春に「民衆十字軍」がライン川流域のユダヤ人共同体を虐殺した。ヴォルムス、マインツ、ケルンで数千人が殺された。ラインラントのポグロムは「異端者・不信者を殺して聖地を取り戻す」という十字軍の言説が、同一の論理で内部の「他者」にも向けられた帰結だった。この逆説——「神聖な目的」が最も近くにいる者への暴力を正当化する——は十字軍の最初の表現として現れた。
正規の指揮官たち(ゴドフロワ・ド・ブイヨン等)は一般にポグロムを阻止しようとしたが、成功は限定的だった。民衆の宗教的熱情は指揮系統の制御を超えた。指導者が喚起した動員の力が、指導者の意図しない方向にも流れ込む——これは大規模な政治的動員が常に内包する構造的危険だ。
三 第一回十字軍と1099年のエルサレム
1099年7月のエルサレム陥落は第一回十字軍の頂点だった。十字軍兵士はエルサレムの住民を大規模に殺害した——ムスリム、ユダヤ人、東方キリスト教徒を問わず。虐殺の規模の推計は学者によって大きく異なるが、ファーティマ朝の守備隊と市内住民の多くが死んだ事実は否定できない。当時の年代記著者(フランク人のものも含む)は「血が膝まで達した」と書いた。
同年成立したエルサレム王国は封建西欧の縮図だった。「エルサレム王」の称号と実権の分離(実際の支配は複数の男爵が分有した)、現地のムスリム・キリスト教徒・ユダヤ人との共存の必要、補給路の維持という永続的な課題。十字軍の勝利は二種の構が接触する空間を開いた。その接触は征服者が意図した一方的な文明的優位ではなく、相互的な変容を生んだ。
四 四つのラテン国家——「粗い寛容」
エルサレム王国、アンティオキア公国、エデッサ伯国、トリポリ伯国の四つのラテン国家は小勢力として存立した。圧倒的に多いムスリム・東方キリスト教徒人口の上に少数の西欧騎士が支配者として君臨した。この状況は「完全な排除」を不可能にした。農業生産を担うムスリム農民を殺すことはできない。交易で生き延びるにはムスリム商人と取引しなければならない。
結果として「粗い寛容(rough tolerance)」が実践された。イデオロギーと実務の間の乖離が常態化した。フランク人騎士はアラビア語の一部を学び、現地の医療慣行を採用し、東方の食習慣に適応した。この日常的な接触が文化的転移を生んだ——意図されたものではなく、生存の必要から生まれた共存が相互変容をもたらした。長期的な文化的接触の多くはこのように、意図的な学習ではなく、生活上の必要から始まる。
五 第二回十字軍とサラディンの台頭
第二回十字軍(1147-49年)はダマスクス攻略を目標としたが失敗し、むしろダマスクスを孤立から救ってイスラーム世界の政治的統合を促した。この失敗の後、ザンギー朝、ヌール・アッディーン、そしてサラフ・アッディーン(サラディン、1137-1193年)へと至る統合の過程が加速した。
サラディンは1169年にエジプトのファーティマ朝を終わらせ、エジプトとシリアを統一した。1187年のハッティーンの戦いで十字軍の主力(エルサレム王国の騎士団と歩兵の大部分)を壊滅させ、同年エルサレムを回復した。サラディンがエルサレムで行った「異例の寛容な処置」(住民の身代金での解放)は、1099年の十字軍の虐殺との対比で語られてきたが、それ自体が政治的選択だった——残虐な報復よりも寛容の方が長期的な統治コストが低い。
六 第三回十字軍とリチャード=サラディンの接触
1187年のエルサレム喪失への反応が第三回十字軍(1189-92年)だ。英国王リチャード一世(「獅子心王」)、フランス王フィリップ二世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ一世が参加した。しかしフリードリヒは川を渡る際に溺死し、フィリップは早期帰国し、リチャードが事実上の単独指揮を執った。
リチャードとサラディンの交渉は相互尊重を伴うものだった——後世に「騎士道的対抗」として美化される部分はあるが、両者が実際に特使を交換し、協議し、交渉したことは事実だ。1192年の協約でキリスト教巡礼者のエルサレム訪問権は認められたが、エルサレムの政治的支配は回復されなかった。軍事的膠着が外交的妥協を生んだ——これは構と構の接触が最終的に辿り着く形式のひとつだ。
七 第四回十字軍——1204年の転向
第四回十字軍(1202-04年)は十字軍運動の内部的矛盾を最も鮮明に示した。エジプト攻略を目標として出発したが、ヴェネツィアへの輸送費の未払いからキリスト教都市ザーラを略奪し(ハンガリー王の都市)、さらにコンスタンティノープルを攻撃してビザンツ帝国を打倒した。「ラテン帝国(1204-61年)」の成立だ。
教皇インノケンティウス三世は激怒したが、最終的には事実を受け入れた。第四回十字軍はキリスト教圏の内部を攻撃し、東西教会の亀裂を決定的に深めた。ビザンツ人の西欧に対する根深い不信がここで醸成され、1453年のコンスタンティノープル陥落まで続く東西の疎外の基盤になった。「神聖な目的」を掲げた運動が、その目的の最も明白な否定行為に帰結した——構が生む余項の中でも最も逆説的な形式のひとつだ。
八 1291年への衰退
第五回から第九回まで十字軍は続いたが、いずれも第一回の成功を再現できなかった。皇帝フリードリヒ二世は外交交渉(アイユーブ朝スルタン・アル=カーミルとの協議)によって1229年にエルサレムへの一時的な支配権を確保したが、西欧のキリスト教徒から「破門された皇帝が敵と交渉した」と非難された。1244年にエルサレムは再びムスリムの手に渡った。
フランス王ルイ九世(「聖王」)の第七回(1248-54年)と第八回(1270年)はいずれも失敗し、ルイ自身は第八回でチュニジアの陣中で病死した。1291年にアッコン(十字軍最後の拠点)がマムルーク朝に陥落し、中東での十字軍支配は終わった。終結は劇的な大敗北ではなく、長い消耗の末の徐々の退却だった。
九 ヨーロッパへの逆流効果
十字軍は西欧にも永続的な変容をもたらした。東方との貿易接触が拡大し、絹・香辛料・砂糖・綿織物が西欧市場に流入した。イタリア都市(ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサ)が東地中海貿易の主要担い手として台頭し、商業資本主義の萌芽を育てた。アラビア語経由のギリシア哲学テキストと自然科学著作がラテン語に翻訳され、十二世紀の「翻訳の世紀」を生んだ。
アリストテレスの全著作、イブン・スィーナーの医学典範、イブン・アル=ハイサムの光学書が西欧の知識人の世界に到達した。これらの著作がトマス・アクィナスのスコラ哲学(「アリストテレス的キリスト教」)を可能にし、後の科学革命の概念的基盤の一部を形成した。西欧は十字軍を通じて東方から学ぶことになった——これは征服者にとって意図された結果ではなかった。
十 イスラーム世界への逆流効果
十字軍はイスラーム世界にも永続的な影響を残した。外来の侵攻への対応として政治的統合が促進された——サラディンのエジプト=シリア統一はその直接的な産物だ。マムルーク朝は十字軍への防衛から強化された軍事力を土台に、後のモンゴル侵攻(1260年のアイン・ジャールートの戦い)を撃退する力を持つことができた。十字軍がなければマムルーク朝の軍事的結束はより遅れていたかもしれない。
十字軍の記憶のイスラーム世界への影響は、近代以前には驚くほど限定的だった。イブン・アル=アスィールなどの歴史家は十字軍を記録したが、十二・十三世紀のイスラーム世界にとって十字軍はモンゴルよりも重大な脅威ではなかった。十字軍の記憶が政治的に動員されるのは主に十九世紀以降——欧州植民地主義への抵抗の文脈においてだ。
十一 十字軍記憶の現代的再構築
十字軍の現代的な意味は中世の実態よりも後世の再構築に依存する。西欧では十九世紀ロマン主義が十字軍を「文明の防衛」として美化し、欧州植民地主義の道徳的粉飾に使われた。イスラーム世界では十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、欧州列強への抵抗の文脈で十字軍が「歴史的侵略」として再解釈された。現代の政治的言説(ジハード主義者が欧米を「十字軍」と呼ぶ、欧米の論者が「文明の衝突」を十字軍の枠組みで語る)はこの再構築の延長にある。
歴史的分析の責任は、現代的な動員のために単純化された記憶を批判的に検証し、中世の実態の複雑さを取り戻すことにある。十字軍は「文明と野蛮の対決」ではなく、複数の動機を持つ複数のアクターが、複数の利益のために行った一連の複雑な政治・軍事的事業だった。その遺産もまた一面的ではない。
十二 総合
十字軍は西欧封建社会という構の余項——土地なし騎士、拡張衝動、教会の道徳的動員能力——が東方への出口を見つけた過程だった。二百年間の接触は双方に永続的な変容をもたらした。純粋な「勝利」も「敗北」も存在しない——西欧は最終的にエルサレムを保持できなかったが、接触から学んだ知識と商業的経験は西欧の発展に寄与した。イスラーム世界は軍事的には十字軍を追い出したが、政治的統合のプロセスが加速した。
次の篇では、この接触の時代に外部から到来する根本的に異なる種類の力——構外暴力——を見ていく。モンゴルは西欧封建社会ともイスラーム世界とも無関係な外部から来た。しかしその衝撃は複数の文明を同時に断裂させ、後の世界の地図を書き換えた。