四人、一つの道
それぞれの巡礼の意味
一 四種の構造
悟空は五行山を出て三蔵法師に従った。道中で猪八戒、沙悟浄、白竜馬を加え、四人(と一頭の馬)で西天へ向かった。ほとんどの人はこのチームを性格の組み合わせとして読む——三蔵法師は慈悲深いが軟弱、悟空は優秀だが衝動的、八戒は食い意地が張ってすけべ、悟浄は実直で控えめ。この読み方は間違っていないが、表面で止まっている。私の読み方はこうだ——この四人は四種の性格ではない。四種の構造だ。四種のまったく異なる内的状態が、たまたま同じ道を歩いている。しかも彼らの名前はすでに各自の命題を明確に書いている。
まず三蔵法師から。なぜなら三蔵法師なしにはこの物語がないからだ。「三蔵法師なしでは物語が違っていた」のではなく、三蔵法師なしでは西遊記がない。三蔵法師は戦えない。妖怪に会えばいつも捕まる。しょっちゅう泣く。悟空が妖怪を殺すたびに「出家者は殺生してはならぬ」と念仏を唱える。悟空はうんざりし、読者もうんざりする。この人は何の役に立つのか。彼には方向がある。そしてその方向を疑わない。これは当たり前に聞こえる。誰だって方向はある。八戒だって西天へ行きたいと思っている(ただしよく高老荘へ帰りたくなるが)。しかし三蔵法師の方向は他と違う。揺るぎない。妖怪が来ても方向は変わらない。弟子が逃げても変わらない。前に火焰山が立ちはだかっても変わらない。全員が無理だと言っても、彼は行くと言う。「条件が許せば西へ向かう」のではなく、「条件がどうであれ西へ向かう」のだ。
二 能力なき者だけが与えられる方向
さらに重要なのは、彼がその方向自体を疑わないことだ。彼はある朝目覚めて「私はなぜ西天へ行くのか、本当にその価値があるか」と考えたことが一度もない。その問いが彼には存在しない。方向が揺るぎないのは、方向が疑われないからだ。この疑わなさはどこから来るのか。能力からではない。三蔵法師には能力がない。まさに能力がないからこそ、方向が揺るぎないのだ。悟空の問題は何か。能力が強すぎることだ。能力が強い者は自然に能力に引きずられる。戦えるから、まず戦う。変化できるから、まず変化する。能力は方向を形作る——どんな道具を持つかで、どんな方向へ向かうかが決まる。ハンマーを持つ者には何でも釘に見える。三蔵法師にはハンマーがない。だから釘が彼の方向を定義できない。彼の方向はまったく別のところから来ている——誓願から、約束から、この任務を受け入れた時の取り消せない決断から。
これがなぜ取経チームには、戦えない人物が先頭に立つ必要があるかだ。道徳的に優れているからではない。能力によって方向を形作られない者だけが、能力に依存しない方向を与えられるからだ。悟空と三蔵法師は必ず衝突する。そして衝突は解決されてはならない。悟空はいつも三蔵法師が邪魔だと感じる。戦えない和尚が何故私に指図するのか。三蔵法師はいつも悟空が過激だと感じる。殺すことは間違いだ、それが妖怪であっても。白骨夫人三連打はこの衝突の極端な形だ。悟空は妖怪を見抜き、打った。正しかった。三蔵法師は妖怪が見えず、無実の人を三人殺したと思った。悟空は正しかった——確かに妖怪だった。三蔵法師も正しかった——妖怪だと思っても、そのせいで人を打ち殺すことはできない。これは誰が正しいかの問題ではない。二種の力の間の緊張だ。能力は言う——私にはお前には見えないものが見える、だから私に従え。方向は言う——何を見たとしても規則は破れない。この緊張は解消される必要はない。走り抜けられる必要がある。十万八千里を走り、八十一難を経ても、緊張はずっとそこにある。それは道そのものの一部だ。
三 悟空・八戒・沙悟浄の命題
悟空。悟った「空」とは何か。空は「何もない」ではない。「放棄」でもない。もし空が放棄なら、悟空が成仏した時にすべての能力を失っているはずだ。しかし能力は完全無欠のままだ。斗戦勝仏——「斗戦勝」の三文字は残っている。空はこういう意味だ——無限の能力を持っているが、使うか使わないかを決められる。使わないことも空。使うことも空。「使う」に縛られず、「使わない」にも縛られない。自分の能力との間に距離がある。それを持っているが、それではない。全力で発揮することも、手を収めることも、自分にとって同じ重さだ。天宮大乱の時の悟空は、空ではなかった。能力に縛られて動いていた。能力が打てと言えば打ち、能力が暴れろと言えば暴れた。能力が彼で、彼が能力だった。距離がなく、選択がなく、「使わない」という選択肢がなかった。五行山の下の五百年は、能力がすべて効かなかった。これは強制された「使わない」だ。強制された不使用は空ではなく、閉じ込めだ。取経の道では能力が戻った。しかし今回は違う。緊箍児があり、三蔵法師がいて、妖怪に会うたびに打つべきかどうかの選択がある。各難はいつも同じ問いを尋ねる——打ち勝てる能力があるが、打つのか。解決できる能力があるが、能力で解決すべきことか。悟空は悟った。仏になった。何を悟ったのか。空を悟った。「能力があるが、能力がすべてではない」を悟った。使うと使わないの間に自由な空間があることを悟った。その空間が空だ。
猪八戒が悟った「能」とは何か。八戒の問題は能力が足りないことではない。彼の能力は悪くない。天蓬元帥出身、三十六変、九歯釘鈀、戦っても弱くない。八戒の問題は欲望の中から抜け出せないことだ。食いたい、寝たい、女がほしい、楽な日々が欲しい、高老荘へ帰りたい。衝動があり、本能があり、表現への欲望がある。しかしこれらの衝動はより大きな構造の中に統合されていない。各自がばらばらに動く。刺激が来て、反応が出る、より高い処理層を経ずに。「能」は能力ではない。「能」は動力だ。あなたを前へ推し進める力だ。八戒の命題は——欲望の層の動力を破り、より高い次元の動力を見つけることだ。欲望を消すのではない——消せば動かなくなる。欲望を突き抜けて、動力を昇格させる。「食いたい」から「この道を歩み切りたい」へ。本能に押されることから、方向に引かれることへ。八戒はこれを悟れなかった。全行程を歩んだ。一歩も欠けなかった。しかし歩む方式は最後までその層から離れなかった。引きずられて歩み切ったのであって、自分で突き抜けたのではない。だから仏にはなれなかった。浄壇使者に封じられた——つまり食事の役——。最後まで食に関係する位置を与えられた。皮肉ではない。精確だ。苦労はした、だから使者を与えた。しかし自分の名前の中の問いを解けなかった。沙悟浄が悟った「浄」も同様に論じられる。彼は浄を悟った。求めず、欲せず、最も静かな人物だ。しかし浄の境界を悟れなかった。いつ浄で、いつ浄でないべきかを悟れなかった。金身羅漢に封じられた——最も浄な者の安定した位置だが、最終的な位置ではない。
四 白竜馬——終点が始点になる
白竜馬には法号がない。「悟」の字がない。この命題体系の外にいる。何も悟らない。悟れない。白竜馬はかつて竜だった。西海竜王の三太子。竜は高次元の存在で、飛べ、変化でき、雲を呼び雨を降らせる。馬になったのは降格だ。竜から馬へ、高次元の自由な存在から機能的な運搬道具へ。彼は悟らない。彼は苦行する。悟空の五行山は五百年で終わった。三蔵法師が封印を解き、道が始まった。白竜馬の五行山は取経の道全体だ。他者が道を歩んでいる間、彼は道の一部だ。他者が八十一難を経験している間、彼は道が続けられるための運搬だ。三蔵法師を背負う。この難から次の難へ。この宿場から次の宿場へ。戦いに参加せず、議論に参加せず、法号の中の悟りと悟らざるにも参加しない。一つのことだけをする——道を続けさせる。
橋の本質は何か。橋は自らの独立した立場を放棄し、両端をつなぐものになる。橋は目的地ではない。「橋に着いた」と言って止まる者はいない。橋の全意義はあなたをこちら側からあちら側へ渡らせることにある。白竜馬は橋だ。竜が馬になったのは喪失ではない。自らを純粋な連結機能に変えたのだ。最後に白竜馬は八部天龍に封じられた。竜の姿を取り戻した。しかしここで皆が見落とす一つのことがある。取経の物語は終わった。白竜の物語はここから始まる。悟空の物語は石が裂けた時から始まった。三蔵法師の物語は取経の誓願から始まった。彼らの物語は取経の中で展開し、取経の中で完成した(あるいはしなかった)。白竜馬は違う。白竜馬は取経の道で展開しなかった。自分を抑え、馬になり、十万八千里を運んだ。これは展開ではない。蓄積だ。取経が終わり、竜の姿が戻った。彼は十万八千里の運搬経験を持って竜の次元へ戻る。あの年月に彼はすべてを見たが何にも参加しなかった。方向そのものを背負った。能力と方向の全緊張を目撃した。ただ黙っていた。竜の姿を取り戻した瞬間、彼はもとの竜ではない。馬になったことのある竜だ。道全体を背負った竜だ。他者の終止符が彼の読点だ。彼の物語はここからようやく本当に始まる。同じ一つの道。五種の異なる歩み方。五種の異なる結末。道が違うからではない。歩む者の構造が違うからだ。